久保田治
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久保田 治(くぼた おさむ、1934年12月19日 - )は、昭和中期から平成期(1950年代後半-2000年代前半)のプロ野球選手、プロ野球審判員。選手として活躍し、審判としても活躍した人物。愛知県出身。
[編集] 来歴・人物
豊川高等学校、駒澤大学を経て1955年に東映フライヤーズに投手として入団。土橋正幸と並ぶ東映のエース格として、1961年には25勝を挙げた。翌1962年には16勝を挙げ、防御率は2.12で最優秀防御率に輝き、東映のパシフィック・リーグ初優勝および日本一に大きく貢献する。1966年には読売ジャイアンツに移籍するも、1勝挙げたのみで引退した。投手としての通算成績は、307試合に登板して80勝58敗、防御率2.83、オールスターゲーム出場2回。サイドスローの本格派。剛球投手で打者の手元で小さく曲がるカーブが武器。
引退後セントラル・リーグ審判部に入局。審判員になった年齢は遅いが、ファームでは最優秀審判賞を受賞、早い時期から巨人戦の球審も任され、1974年に日本シリーズ初出場を果たし、1978年のヤクルトスワローズ初優勝の試合での球審など順調にキャリアを積み重ね、2852試合に出場、日本シリーズ・オールスターはともに7回出場した。1995年の日本シリーズを最後に引退、審判指導員として後任の指導に当たっていたが2001年に退職した。現在はプロ野球マスターズリーグで審判を務めている。審判員袖番号は12(1988年初採用から2001年引退まで。専任指導員に転じた1996年以降もつけていた。12は2007年新採用の坂井遼太郎が引き継いだ。)
プロ野球選手として一流の成績を残した後に審判に転進した、最後の人物といえるだろう(タイトルホルダーの現役審判としては、1990年にゴールデングラブ賞受賞経験のある柳田浩一がいる)。平光清・三浦真一郎とともに早くからインサイドプロテクターを採用していた。やや打者の内角寄りに身体を傾けて構え、ストライクのコールはその状態から右腕を真上に上げていた。また、打者が見逃し三振をした時のポーズも特徴的であった(真上に手を挙げた後、打者と反対側の方を向いてストライクアウトのポーズを取る)。性格は温厚で、多芸多才、動物好きである。