岩本義行
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岩本 義行(いわもと よしゆき、 1912年(明治45年)3月11日 - )はプロ野球選手(外野手)・プロ野球監督。怪力・豪傑にまつわる多くの逸話を残す伝説の猛打者。弟は南海ホークス他で活躍した岩本信一。孫娘は女優の遠野舞子(本名、岩本舞子)。広島県三次市出身。
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[編集] 来歴・人物
三次中学(現三次高校)から広陵中学(現・広陵高校)に転校。豪放無類の名物男として、この頃から多くの逸話を残している。バットの振り過ぎで腕がポキンと折れたとか、そのため引っ張り専門のバッティングしか出来なかったとか、敬遠のワンバウンドした球をホームランにしたとか、中学生なのに髭ヅラで引率の教師と間違えられたとかである。その精悍な面構えから長打を連発、広陵野球部史上最強のスラッガーとして鳴らした。最上級生となった1931年夏甲子園大会に出場。準々決勝で名投手吉田正男の中京商業(現中京大中京高校)に惜敗(中京商業はこの年から空前の夏三連覇)。しかし同年秋の神宮野球大会では吉田を打ち込み、更に前年から夏春連覇中で、この年の夏はハワイ遠征で欠場した灰山元治、鶴岡一人らのいた同じ広島の広島商業を決勝で岩本の長打2本で下す。
明治大学に進学、ここでも二年生で首位打者、また当時としては驚異的な1シーズン3ホーマー、1試合13塁打の記録を作るなど豪快なプレーで神宮を沸かした。戦前の六大学リーグ戦の代表的スラッガーと呼ばれる。1934年明治卒業時にはプロは無く、当時六大学出身のスター選手を揃え人気・実力とも社会人日本一の強豪、東京倶楽部に入団。翌1935年都市対抗野球大会の優勝に貢献した。翌1936年プロ野球が発足。しかし東京倶楽部の人気ぶりは凄まじく、出場する試合は常に超満員で、この年の都市対抗は、僅か一週間の開催でプロ野球1年間の観客数と同じ数を集めた、という逸話が残っている。しかしながら急激なプロ野球人気に喰われ東京倶楽部は翌年1937年に解散。1938年新発足した南海軍の創設に参加した。
初代主将・背番号30。他の参加選手に比べてケタ外れの大物だった岩本は、監督・高須一雄を差し置いて陣頭指揮を執り、実技指導を行ってチームを鍛え上げプロ野球に殴り込むと意気上がったが、記念すべき初戦のオープン戦途中に赤紙が来た。この令状が届くと度胸のある男でも震えたといわれるが、豪男岩本は何事も無かったのように令状をポケットに押し込むと 「打て!、打て!」とナインを叱咤し球場から消えた。2年間徴兵のため試合出場はなく復員した1940年から戦時下の1942年まで南海でプレー。1941年、太平洋戦争開戦直前に行われた現在のオールスター戦にあたる東西対抗戦でも西軍の四番を張った。この試合に出場した大半の選手は、この後戦地に送られ、吉原正喜、鬼頭数雄、村松幸雄らは帰って来ることはなかった。1942年には打撃三部門(打率・本塁打・打点)で全て2位。同年7月11日、後楽園球場での対名古屋軍戦で、1試合3ホームランのプロ野球新記録をマーク。戦前の飛ばないボールの時代に記録した唯一人の選手である。バットを体の正面でゆったりと構える独特の打法は神主打法と呼ばれた。明治在学中に自ら考案して身に付けたといわれ、この打法はバックスイングをほとんど取らず、腕力だけで引っ叩くという常人にはとても真似出来無い打法であった。
戦後はアマチュアの全広島でプレー後、1947年からは広陵の後輩・白石勝巳が創部して監督を務めていた植良組(別府市)に、白石の巨人復帰による後任を頼まれプレーイングマネージャーとして在籍。1949年大陽ロビンスに37歳でプロ球界に復帰。翌1950年、大量補強したチームをまとめるため明治の大先輩・小西得郎の監督就任に尽力。自身も豪打は衰えず二リーグとなった同年、3月11日の開幕第2戦(下関球場対中日)でセ・リーグの記念すべき第一号本塁打を満塁で放つと、この年3番小鶴誠、5番大岡虎雄とクリーンアップを組み、水爆打線と呼ばれた史上屈指の強力打線を構成、史上初のトリプルスリー(打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝に大きく貢献した(この年の松竹の98勝〔137試合制〕と勝率.737 や二桁得点29試合は現在もセ・リーグ記録。最多安打1417本、15試合連続二桁安打などは現在もプロ野球記録)。毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3ホーマーと打ちまくり無死満塁で敬遠された。シリーズは、初戦岩本の無謀な三盗などで毎日に敗れた。このプレーは岩本の“ミステリー走塁”として日本シリーズ史上に名を残す。
翌1951年8月1日の阪神戦では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録(現在もプロ野球記録)、二塁打も放ち1試合18塁打のプロ野球記録を達成(現在もプロ野球記録)。この二塁打も左翼フェンスを直撃したといわれている。前年に続きこの年も31本塁打(本塁打王、青田昇と1本差)、打点87、打率2位.351(首位打者、川上哲治.377)、長打率1位、盗塁は10。肩も強かったのか前年とこの年に、二年連続で外野手シーズン最多補殺8という、これまたセ・リーグ記録を残している。翌1952年には、相手ピッチャーに嫌われたのか、あるいは打席に入ると打つことしか考えていなかったとも言われ、ボールを避けようとはせず、39歳で1シーズン24死球の日本記録(現在もプロ野球記録)。岩本は頭部に死球を受けても平然と一塁に歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったという伝説がある(当時はヘルメットが無い時代)。腕力が強かったが、それ以上に気が強かったともいわれる。
戦争などで何度もプロを抜け、キャリアの大半が飛ばないボールの時代だった影響で通算本塁打は123本だが、プロ野球に集中できる時代にいたら通算500本塁打以上は確実だっただろうと思われる。
1954年に一旦は引退し、同年と翌1955年、都市対抗野球大会に出場し健在ぶりを発揮、1956年に東映の監督に就任した際、選手兼任(プレーイングマネージャー)として登録。1957年には45歳5ヶ月で本塁打を打ち、史上最年長記録となった(現在もプロ野球記録)。同年ようやく現役を引退。監督は1960年まで5年間務め毒島章一、土橋正幸、山本八郎などの猛者を率いて「駒沢の暴れん坊」と異名を取り血の気の多いファンを集め、1959年にはチームを初めてAクラス入りさせた。また高卒新人張本勲を抜擢するなど1962年日本一の素地を創った。その後は近鉄のコーチを経て、1965年から1966年に近鉄の監督を務めた。近鉄時代は高卒の鈴木啓示を抜擢してエースに育成した。1981年に野球殿堂入り。
現在は郷里の三次で余生を送るが、地元のTVに出演して神主打法を披露したり、旅行に行ったりと、殿堂入り最年長OBは90歳を超えてもまだまだ元気である。孫は5人おり、その顔を見るのが楽しみというが、そのうちの一人が女優の遠野舞子である。
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最高記録
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1940 | 南海 | 45 | 165 | 20 | 37 | 9 | 1 | 0 | 48 | 10 | 9 | - | 2 | 1 | 18 | 5 | 25 | - | .224 | - |
1941 | 南海 | 84 | 340 | 34 | 68 | 14 | 0 | 7 | 103 | 30 | 17 | - | 0 | - | 30 | 6 | 30 | - | .200 | 32 |
1942 | 南海 | 104 | 358 | 51 | 98 | 17 | 3 | 7 | 142 | 46 | 37 | 16 | 5 | - | 71 | 5 | 18 | - | .274 | 2 |
1949 | 大陽 | 52 | 196 | 30 | 48 | 12 | 0 | 8 | 84 | 34 | 5 | 2 | 0 | - | 19 | 6 | 22 | - | .245 | - |
1950 | 松竹 | 130 | 552 | 121 | 176 | 23 | 3 | 39 | 322 | 127 | 34 | 8 | 0 | - | 40 | 7 | 48 | 15 | .319 | 7 |
1951 | 松竹 | 110 | 422 | 100 | 148 | 24 | 0 | 31 | 265 | 87 | 10 | 4 | 0 | - | 63 | 11 | 43 | 12 | .351 | 2 |
1952 | 大洋 | 120 | 454 | 82 | 130 | 24 | 3 | 16 | 208 | 81 | 16 | 6 | 0 | - | 44 | 24 | 41 | 19 | .286 | 14 |
1953 | 洋松 | 110 | 411 | 47 | 110 | 17 | 1 | 9 | 156 | 49 | 8 | 4 | 1 | - | 38 | 5 | 40 | 10 | .268 | 17 |
1956 | 東映 | 86 | 204 | 14 | 42 | 1 | 0 | 5 | 58 | 21 | 4 | 2 | 0 | 2 | 18 | 6 | 21 | 8 | .206 | - |
1957 | 東映 | 15 | 19 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 7 | 0 | .105 | - |
通算 | 10年 | 856 | 3121 | 502 | 859 | 141 | 11 | 123 | 1391 | 487 | 140 | 42 | 8 | 3 | 345 | 75 | 295 | 64 | .275 | - |
[編集] タイトル・表彰
- ベストナイン2回(外野手 1950年、1951年)
[編集] 監督通算成績
- 922試合 370勝 532敗 20引分 勝率.410
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 真説 日本野球史、大和球士、ベースボールマガジン社、1977年7月
[編集] 外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。