浜松城
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模擬天守 | |
通称 |
曳馬城、引馬城、出世城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 | |
築城主 |
飯尾乗連 |
築城年 | |
主な改修者 |
松平家康 |
主な城主 |
飯尾氏、松平氏、堀尾氏 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
石垣、曲輪、模擬天守 |
位置 |
浜松城(はままつじょう)は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。「出世城」という別名がある。
目次 |
[編集] 家康時代
浜松城(武家時代の名称は濱松城・一般的には新字体が用いられる。)は、前身は曳馬城(引馬城)と呼ばれ、今川氏の家臣・飯尾氏が建てた。今川氏の衰退後、城主・飯尾連竜が今川氏真に反旗を翻して逆に氏真によって攻め滅ぼされた。
永禄11年(1568年)に徳川家康が攻略し、元亀元年(1570年)、岡崎城から本拠を移した(岡崎城は嫡男・信康に譲った)。
当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。又、引馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり、縁起が悪いということで、付近がかつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名、地名ともども「浜松」と改めた。
元亀3年(1573年)、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら、これを無視するような行軍をして家康を挑発。挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を喫している(三方ヶ原の戦い)。
拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わったが、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松城から駿府城に本拠を移した。家康の在城期間は、17年になる。
[編集] 家康以後
家康以後、天正18年(1590年)からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城したが、関ヶ原の戦いの功績で松江に移封。以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて譜代大名各家が次々に入った。 近世には天守は存在しなかったようで絵図にも天守は記載がない。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の昭和の天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。 現在の天守閣は資料館として使われており、家康を初めとした当時のゆかりの品々を見学できるほか、城の周辺は緑が溢れ、桜の名所としても名高く、シーズンには花見客で溢れ返る。
[編集] 歴代藩主
- 松平忠頼(桜井松平)
- 高力忠房
- 松平乗寿(大給松平)
- 太田資宗→資次
- 青山宗俊→忠雄→忠重
- (本庄松平)松平資俊→資訓
- (大河内松平)松平信祝→信復
- 松平資訓→資昌
- 井上正経→正定→正甫
- 水野忠邦→忠精
- 井上正春→正直
[編集] 「出世城」と井上正甫・水野忠邦
「出世城」という呼び名に関しては、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多く、このことから出世城とも呼ばれたとされる。逆に、一つの事件で出世を棒に振った例もある。
井上正甫は浜松藩主当時は幕府奏者番の地位(享和2年(1802年より在任)にあり、血筋からも将来を約束された人物であった。しかし、文化13年(1816年)秋に事件は起こった。
正甫は同僚であった信濃高遠藩主内藤頼以に招かれ、高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)で小鳥狩を楽しんだ。正甫は狩に熱中しすぎたあまり、屋敷隣の千駄ヶ谷村に迷い込んでしまった。正甫はその時喉が渇いていたので、一服するために家を探していたところ一軒の農家を見つけた。その農家では夫がたまたま出かけており、女房が留守番をしていた。正甫はお茶を出してもらい、そのおかわりを貰おうとしたその瞬間、いきなり女房を押し倒してしまった。その時、間が悪く夫が帰宅してきた。夫は天秤棒で女房の上に乗っていた正甫を殴りつけ、正甫は抜刀して夫の片腕を切り落とした。後始末を家臣に任せ、農家夫婦を浜松に連れてきて口封じをしたつもりではあったが、やがて噂は江戸中に知れ渡り、正甫が登城の際は他の登城する大名の足軽らから「密夫大名!」「待ってました!強淫大名!」「百姓女のお味はいかがでござる」とからかわれた。同年12月23日、正甫は奏者番を免ぜられ、翌年9月14日に棚倉藩(福島県棚倉町)に左遷された。
水野忠邦の前任地は肥前唐津で、主な担当は長崎警備であった。しかし、忠邦はかねてから幕閣として参画することを夢見ており、日頃から幕府要人に接待攻勢・賄賂攻勢をかけていた。しかし、唐津と浜松では石高は似たようなものであったが、実収では浜松は大きく見劣り、家臣はその点から浜松行きには猛烈に反対していた。そんな折に起こったのが正甫の事件であった。幕府は「これ幸い」とばかりに左遷した正甫の後釜に、以前から「浜松へ移せ!」と喧しかった忠邦を浜松に移したのであった。しかし、忠邦は着実に出世し念願の老中にはなったものの天保の改革で躓き、続く政争で失脚し長男・忠精の代になって山形に移されてしまった。
水野の後釜として浜松に入ってきたのは、井上正甫の長男・正春であった。
[編集] 交通
JR浜松駅より徒歩約20分
JR浜松駅より遠鉄バスで浜松市役所前下車。乗車約10分 + 徒歩約5分
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 小和田哲男「信長と同盟、今川・武田氏を撃破」『歴史群像シリーズ・徳川家康』学習研究社、1989年。
- 佐藤雅美「色でしくじりゃ井上様よ」『槍持ち佐五兵衛』講談社。
- 野村敏雄「強淫大名の末路 よせばいいのに農婦に手を付けてしまった井上正甫」『歴史読本スペシャル特別増刊'91-2 大江戸おもしろかなし大名たち』新人物往来社、1991年。
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書、2004年、86頁~87頁。
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