京都紫光クラブ
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京都紫光クラブ | |
原語表記 | 京都紫光サッカークラブ |
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愛称 | 紫光、紫光クラブ |
クラブカラー | 紫 |
創設年 | 1922年 |
所属リーグ | 関西社会人 |
所属ディビジョン | 1部 |
ホームタウン | 京都市 |
ホームスタジアム | 京都市宝が池公園運動施設球技場 |
収容人数 | 6,000 |
代表者 | 豊浦太郎(SD) |
監督 | 小池正樹 |
京都紫光クラブ(きょうとしこう-、Kyoto Shiko Soccer Club)は1922年に京都師範学校(新制大学として京都学芸大学に改組、その後京都教育大学に改称)OBチームとして誕生したサッカークラブ。当初は京都紫郊クラブであった。
現在、京都紫光クラブ系のクラブとして
- 京都パープルサンガ(2007年から京都サンガF.C.)
- FC京都BAMB1993
- 京都紫光クラブ
の3つが存在する。もともと1つのクラブチームであったが1993年に京都パープルサンガが誕生するにあたって3つに分裂した。
本稿では1993年までの京都紫光クラブと1993年以降の京都紫光クラブを一括して扱う。
目次 |
[編集] 1993年までの京都紫光クラブ
- 1922年 京都紫郊クラブとして誕生
- 1954年 京都紫光クラブに改称
- 1971年 関西社会人リーグ優勝
- 1972年 第1回日本サッカーリーグ(JSL)2部に参加。
- 1978年 JSL2部から降格
- 1979年 関西社会人リーグ優勝
- 1988年 関西社会人リーグ優勝、JSL2部に昇格
- 1992年 JSL終了によりジャパンフットボールリーグ2部に参加、準優勝
- 1993年 ジャパンフットボールリーグ1部昇格、京都紫光クラブと教育研究社FC京都パープルサンガに分裂
[編集] 分裂
1993年に京都紫光クラブを母体として、京都市をホームタウンとするJリーグチーム、「教育研究社FC京都パープルサンガ」の創設が決定した。
1994年には地元府民の署名に押され、京都財界の主導で更にプロ化を進めた「京セラパープルサンガ」に再編。これに対してプロにならないでアマチュアとして選手活動を続けていく選手、特に練習生の受け皿となるべく、教育研究社(現・ワオコーポレーション)サッカー部として創設されたのが現在の「FC京都BAMB1993」である。
この名前を変えて活動している2チームのその後の動向については、それぞれの項を参照されたい。
[編集] 1993年以降の京都紫光クラブ
これらの流れとは別に、従来の京都紫光クラブのあり方で活動を続けて行こうとしたのが現在の「京都紫光クラブ」の流れである。分裂当初は少年団を中心とした紫光本体は京都パープルサンガの下部組織として歩調を合わせていたが、サンガ側が独自の下部組織を構成し始めたため事実上双方は別の道を歩むこととなった。その一方で、少年団、ジュニアユースの年代によるチームおよび女子チームのグループと社会人チームとの間には社会人チーム三分裂の影響で関係が滞っていたが、2005年から社会人チーム監督の小池正樹や豊浦太郎の呼びかけで京都紫光サッカークラブとして手を携えて再生しようという機運が高まり、少年団事務局との間での折衝が続いて行われ、融和に向けての一歩を進み始めた。同年から合同行事なども少しずつではあるが実施されている。
従来、京都紫光クラブは、小中学生を対象とした下部組織の充実に早くから取り組んでおり、彼らを見捨てることが出来なかったというのも大きな理由の一つである。現在の京都紫光クラブは企業チームでもプロクラブでもないので、参加者から活動費を集めて活動している。女子チームも存在する。
従来の京都紫光クラブの成績は京都パープルサンガに反映されたため、新生京都紫光クラブは京都府リーグからのスターとなった。
- 1993年 京都リーグ4部→第28回関西社会人リーグ 12位
- 1998年 第33回関西社会人リーグ 9位
- 1999年 第34回関西社会人リーグ 11位
- 2000年 第35回関西社会人リーグ 2位
- 2001年 第36回関西社会人リーグ 7位
- 2002年 第37回関西社会人リーグ 7位
- 2003年 第38回関西社会人リーグ 9位
- 2004年 第39回関西社会人リーグ 9位→2部制導入により2部降格
- 2005年 第40回関西社会人リーグ2部 2位 →1部昇格
- 2006年 第41回関西社会人リーグ1部 7位 →2部降格
[編集] 外部参照リンク
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