京都サンガF.C.
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京都サンガF.C. | |
原語表記 | 京都サンガF.C. |
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愛称 | サンガ |
クラブカラー | 紫 |
創設年 | 1922年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン2 |
ホームタウン | 京都市 |
ホームスタジアム | 西京極陸上競技場 |
収容人数 | 20,389 |
代表者 | 梅本徹 |
監督 | 美濃部直彦 |
京都サンガF.C.(きょうとサンガエフシー、Kyoto Sanga FC )は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 発足からJFL時代まで
前身は1922年設立の京都紫光クラブ(設立時の名称は紫郊クラブ)でJリーグ所属のチームとしては日本最古。1993年に将来のJリーグ参戦を目指すためにプロチームの「京都パープルサンガ」とアマチュアの「紫光クラブ」、「教育研究社FC」(1994年から京都府社会人リーグに新参加)の3チームに分割させた。
サンガとはサンスクリット語で「仲間・群れ」を表す(samgha)。(ちなみに漢字では僧伽(そうぎゃ)と書き、後に現在での僧へと変化した。)京都紫光クラブのパープルとサンガを 組み合わせて「パープルサンガ」というチーム名がつけられたのである。
1994年度のJリーグ準会員申請、同年7月承認。1995年シーズン、ジャパンフットボールリーグで2位となり、1996年シーズンからのJリーグ昇格が決定した。
[編集] 迷走するチーム作り ~Jリーグ1年目から最初の降格まで~
Jリーグ参入にあたって大野俊三や佐藤慶明といったJリーグ経験者を補強し、満を持して迎えた1996年の開幕戦。当時黄金時代を迎えていたヴェルディ川崎と対戦し1-0で敗れはしたものの、試合内容は将来への期待を抱かせるものであった。しかしそういった期待とは逆にチームは次々と負けを重ね、ついにシーズン開幕後17連敗という不名誉な記録をつくってしまい、オスカー監督もシーズン途中で解任された。
そんなチームを救うべく、5月にはラモス瑠偉がヴェルディから電撃移籍。後を追うように移籍してきた同じヴェルディの藤吉信次や山口貴之とともにチームを活気づけた。ラモス効果もあってか、後半戦は8勝7敗と勝ち越した。
1997年はペドロ・ローシャ監督を招聘し心機一転をはかったが、カポネ・クレーベルの両外国人選手が期待はずれに終わり、追い討ちをかけるように精神的支柱であったラモスが退団してチームは空中分解。最下位こそまぬがれたものの順位以上に寂しさの残るシーズンとなった。西田吉洋が日本代表候補に選ばれたことが唯一の明るいニュースだったといえる。
1998年のシーズン前、元日本代表監督のオフトを監督に迎え、さらには森保一、岩本輝雄、山田隆裕、黒崎久志といった日本代表経験者を次々と獲得し話題となった。しかし派手な補強とは逆に、相変わらずチームは下位に低迷し、オフト監督も6月には早々と退任した。清水秀彦監督体制で迎えた2ndステージこそ勝ち越したが、横浜フリューゲルスの消滅でようやくJ1参入決定戦をまぬがれるというありさまであった。
翌1999年は1stステージこそ低迷したが、やはり元日本代表監督の加茂周を監督に迎え、クロアチア帰りの三浦知良を獲得した2ndステージは9位と、Jリーグ昇格後初の1桁順位となった。しかし、他チームから有力選手を獲得して場当たり的にチーム強化を図っていたツケがとうとう2000年になって回ってきた。この年に年間成績が16チーム中15位となり、ついにJ2に降格したのである。
[編集] 1年でのJ1昇格とつかの間の黄金時代
このことを契機に強化手法を変え、若手主体のチーム作りに転換する。そのことが功を奏し、2001年シーズンは黒部光昭や松井大輔、朴智星といった若い力が台頭しJ2で優勝、1年でのJ1復帰を果たした。黒部はこの年に30得点を挙げ、J2得点ランキング第2位となっている。
再びJ1で戦うこととなった2002年は開幕直後こそ4連敗するものの、エンゲルス監督のもと、黒部をはじめとする前述の3選手に加えて平井直人、角田誠といった下部組織出身の選手も活躍、J1残留どころか堂々のリーグ戦年間順位5位となる。そして天皇杯では決勝戦で鹿島アントラーズを破り、関西チームにJリーグ発足後初のタイトルをもたらした。若手主体のチーム作りがここに実を結ぶかたちとなったのである。
しかし黄金時代は長くは続かなかった。チームの攻撃の要であった朴智星を失った2003年シーズンは大黒柱黒部光昭の故障に始まり朴智星の後釜として期待された韓国のファンタジスタ高宗秀は全くの期待はずれと昨年の躍進ぶりが嘘のように勝ち星をあげられず、若い松井大輔一人ではこの局面を打開できずエンゲルス監督、そして後任のピム監督も早々と解任されるなどチームは迷走した。結局年間成績最下位となり、2度目のJ2降格が決定した。降格の原因としては天皇杯優勝における調整の短さ、主力選手の故障、補強の失敗、エンゲルス監督の解雇があげられる
1年でJ1昇格を目標として迎えた2004年シーズンはジェフ市原から崔龍洙を獲得。西村昭宏氏(現セレッソ大阪GM)を監督に迎え、黒部・松井も残留し昇格は間違いなしというのが大方の予想だった、しかし序盤戦から勝利に恵まれず、西村監督は途中で解任。その後、地元京都出身の柱谷幸一氏を監督に迎えるも、黒部が怪我がちで満足に活躍できなかったこともあり5位に終わった。
[編集] 2度目のJ1復帰と3度目のJ2降格
2005年シーズンは柱谷監督が続投。星大輔、米田兼一郎、加藤大志といったライバルチームの主力を獲得し、パウリーニョ、アレモンの両外国人助っ人が得点を量産し、圧倒的な強さで序盤から首位を独走。10月22日には2位以内を確定させ、2シーズンぶりのJ1復帰が決定した。11月6日には通算2回目の優勝を決め,最終節に勝利すれば、2004年の川崎フロンターレに次いで、シーズン勝点100以上を達成するはずだったが、惜しくも、1-2でヴァンフォーレ甲府に敗れ、達成には至らなかった。
J2ダントツの得点力、J2最小失点の堅守を見せ付けただけに、3年ぶりのJ1では奮起が期待された。また、2004年シーズンで同様にJ2を圧倒的戦力で優勝した川崎フロンターレが翌シーズンのJ1で活躍したこともあり、オフに目立った補強もせずに2006年シーズンに臨んだ。しかし監督がJ1初采配だったこともあり(川崎の関塚隆監督は鹿島時代に代行監督の経験あり)、なかなか波に乗り切れず下位に低迷。シーズン中に角田誠、手島和希らを補強するも降格圏内を彷徨っていた。10月にはついに柱谷幸一監督が成績不振を理由に解任され、美濃部直彦ヘッドコーチが新監督に就任した。しかし、3バックを採用するなどのテコ入れをはかった美濃部体制でも悪い流れを変えることはできなかった。
11月26日、ガンバ大阪に敗れ18位(最下位)が決まり、J2降格が決定した。二度J2に落ち、二度J1に返り咲いたのはサンガが初めてだったが、三度J2に降格したのも史上初である。
2007年2月からはクラブの正式名称が京都パープルサンガから京都サンガF.C.に、愛称が京都サンガになる。これに併せて新しいエンブレムも制定された。ただし、チームカラーはこれまで通り紫である。2006年にJ1ワーストの74失点を喫したディフェンスを立て直すため、元日本代表DF秋田豊、森岡隆三を獲得。さらにヴァンフォーレ甲府から倉貫一毅を獲得した。主力も軒並み残留し、J1復帰を目指す。
[編集] 課題
今後の課題としては、J1での活躍は勿論の事、クラブとしてだけでなく、地元・京都との関係の再構築があげられる。 サッカースクール開催、京都祭への選手の参加、京の台所・錦市場での新ユニフォーム発表会などを行うものの、地元での注目度・期待度は低いと言わざるを得ない。 「京都人は一流を好む(柱谷前監督談)」ということだが、行政・民間とも現在の所、一歩距離をおいているのが現実である。
また、ホームスタジアムの西京極陸上競技場は、陸上競技用トラックがフィールドと観客を隔てる構造上の問題を有し、また、敷地の狭さからこれ以上の拡張が難しいため、かねてから専用スタジアムの建設が熱望されてきた。しかし、当初検討された、京都市横大路運動公園の敷地利用計画は、交通アクセスや建設予算他の問題から、2006年6月26日、「サッカースタジアム検討委員会」(委員長=松山靖史・京商京都スポーツ振興特別委員長)が「整備は困難」と最終報告書を公表。[1]今後は西京極陸上競技場の改修を軸に検討が進むこととなった。
[編集] ホームスタジアム
- 1996年のJリーグ昇格以降、ホームゲームはほぼすべて西京極陸上競技場で行われている。
- 鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場でも、年間1~2試合ホームゲームを行うのが毎年恒例となっている。
- かつては石川県西部緑地公園陸上競技場や富山県総合運動公園陸上競技場、鳥取市営サッカー場・バードスタジアム、岡山県総合グラウンド陸上競技場、高知県立春野総合運動公園陸上競技場、熊本市水前寺競技場でホームゲームを開催したこともある。2007年はテクノポート福井スタジアムでもホームゲームを開催する予定。
- 1996年、本来ガンバ大阪のホームスタジアムである万博記念競技場で1試合ホームゲームを行っている(詳細はJリーグの試合中止例を参照。)
- 旧JFL時代は西京極以外に京都市宝が池公園運動施設球技場や太陽が丘陸上競技場、皇子山総合運動公園陸上競技場でもホームゲームを行っていた。
[編集] 練習場
- 1998年にオープンした専用練習場サンガタウン城陽が京都府城陽市にある。3面のフットサルコートもあり、一般でも予約してコートを借りることができる。
- 1997年までは滋賀県東近江市(当時は八日市市)にある京セラ八日市総合グラウンドを練習場としていた。
[編集] チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | 監督 | 総監督 |
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1992年 | 旧JFL2部 | 18 | 37 | 11 | 3 | 4 | 2位 | 来栖孝治 | - |
1993年 | 旧JFL1部 | 18 | ― | 2 | 16 | ― | 10位 | 高間武 | |
1994年 | 旧JFL | 30 | ― | 20 | 10 | ― | 5位 | 嶋谷征四郎/与那城ジョージ | |
1995年 | 30 | 70 | 23 | 7 | ― | 2位 | オスカー | ||
1996年 | J | 30 | 24 | 8 | 22 | ― | 16位 | オスカー/与那城ジョージ | |
1997年 | J・1st | 16 | 18 | 6 | 10 | ― | 13位 | ペドロ・ローシャ | |
J・2nd | 16 | 9 | 3 | 13 | ― | 16位 | |||
1998年 | J・1st | 17 | 16 | 6 | 11 | ― | 15位 | ハンス・オフト/清水秀彦 | |
J・2nd | 17 | 23 | 9 | 8 | ― | 11位 | 清水秀彦 | ||
1999年 | J1・1st | 15 | 12 | 4 | 11 | 0 | 14位 | 木村文治 | |
J1・2nd | 15 | 19 | 7 | 8 | 0 | 9位 | 加茂周 | ||
2000年 | J1・1st | 15 | 7 | 2 | 12 | 1 | 16位 | ||
J1・2nd | 15 | 18 | 6 | 8 | 1 | 12位 | ゲルト・エンゲルス | ||
2001年 | J2 | 44 | 84 | 28 | 11 | 5 | 優勝 | ||
2002年 | J1・1st | 15 | 24 | 9 | 5 | 1 | 6位 | ||
J1・2nd | 15 | 22 | 8 | 7 | 0 | 7位 | |||
2003年 | J1・1st | 15 | 10 | 3 | 11 | 1 | 16位 | エンゲルス/木村文治 | 木村文治(6月~監督兼任) |
J1・2nd | 15 | 13 | 3 | 8 | 4 | 14位 | ピム/木村文治 | 木村文治(11月~監督兼任) | |
2004年 | J2 | 44 | 69 | 19 | 13 | 12 | 5位 | 西村昭宏/柱谷幸一 | 木村文治(~6月) |
2005年 | 44 | 97 | 30 | 7 | 7 | 優勝 | 柱谷幸一 | - | |
2006年 | J1 | 30 | 22 | 4 | 20 | 10 | 18位 | 柱谷幸一/美濃部直彦 |
[編集] 獲得タイトル
[編集] チームカラー
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- チームカラーは紫色
[編集] ユニフォームスポンサー
- 胸
- 京セラ (1994- )
- 袖
- 背
- 任天堂 (1994- )
- パンツ
[編集] ユニホームサプライの遍歴
年度 | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 |
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1994 - 1995 | JFL | プーマ | |
1996 | J | ミズノ | プーマ |
1997 - 2002 | J1/J2 | アンブロ | |
2003 - 2006 | J1/J2 | ミズノ | |
2007 - | J2 | ワコール (CW-X) |
[編集] エピソード
[編集] 横浜フリューゲルスとの縁
1998年限りで横浜フリューゲルスが消滅した際、選手5人・コーチ1人・スタッフ1人がサンガに移籍している。それ以前からフリューゲルス出身選手が3人いたため、1999年開幕時点のサンガには実に10人ものフリューゲルス出身コーチ・選手・スタッフが所属していた。同時期にフリューゲルスから本来の合併相手である横浜F・マリノスに移籍した選手は6人であり、「どっちが『F』なのか分からない」とからかう向きもあった。
- 1999年にサンガに所属していたフリューゲルスOBのコーチ・選手
☆で示した選手は、フリューゲルス消滅前からサンガに所属していた選手。
それから4年が経過した2003年の元日、サンガは天皇杯優勝という初めてのタイトルを手にしたが、その時に監督を務めていたのはフリューゲルス最後の監督であり、フリューゲルスにとって最後の公式戦だった1999年元日の天皇杯決勝でチームを勝利に導き、天皇杯優勝という有終の美を飾ったゲルト・エンゲルスであった。
[編集] アビスパ福岡との縁
アビスパ福岡とは4度同時に昇格、降格を経験している。
- 1992年 JFL2部 → 旧JFL1部
- 1995年 JFL → Jリーグ
- 2005年 J2 → J1
- 2006年 J1 → J2
[編集] 1年間同じメンバー
初めてのJ2となった2001年、3月10日の開幕から11月18日の最終戦まで選手の途中入団・退団が一切なかった。
ただ、この年に入団した元ポーランド代表・ピオトル・ソーヴィシュは選手登録抹消こそされていないもののシーズン途中に帰国しており、実質的には「途中退団」はあった。
[編集] 守備放棄事件
- 詳細は大分トリニータ#守備放棄事件を参照
[編集] 応援番組
[編集] KBS京都
- エキサイティング!J(ホーム全試合と一部のアウェーゲームを中継)
- VALUE!サンガ(1995年度放送)
- サンガレボリューション(1999~2000年度放送)
- とことん!京のスポーツ(2004年~現在放送中)
- サンガ@LOVE(2006年度放送)
- サンガタイム(2007年度放送)
[編集] NHK京都
- Jリーグ中継(不定期に京都ローカルでサンガ戦を中継する場合がある)
- ニュース610 京いちにち(月曜日に「スポーツ京都版」を放送)
[編集] 関連項目
- 京都サンガF.C.の選手一覧
- 京都サンガF.C.に在籍した全選手一覧
- 京都スタジアム
[編集] 外部リンク
京都サンガF.C. - 2007 |
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1 平井直人 | 2 秋田豊 | 3 チアゴ | 4 安藤淳 | 5 手島和希 | 6 森岡隆三 | 7 徳重隆明 | 8 美尾敦 | 9 アンドレ | 10 パウリーニョ | 11 星大輔 | 13 三上卓哉 |14 中払大介 | 15 中山博貴 | 16 斉藤大介 | 17 石井俊也 | 18 米田兼一郎 | 19 登尾顕徳 | 20 倉貫一毅 | 21 橋田聡司 | 22 渡邉大剛 | 23 大久保裕樹 | 24 小原昇 | 25 西野泰正 | 26 西村弘司 | 27 加藤大志 | 28 姜鉉守 | 29 田村仁崇 | 30 隅田航 | 31 田原豊 | 32 三戸雄志 | 33 上野秀章 | 34 平島崇 | 35 角田誠 | 監督 美濃部直彦 | クラブ | |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
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J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガF.C. | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
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過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |