全斗煥
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全斗煥 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 전두환 |
漢字: | 全斗煥 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ぜん・とかん |
片仮名: (現地語読み仮名): |
チョン・ドゥファン |
ラテン文字転写: | Chun Doo-hwan |
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全 斗煥(チョン ドゥファン、1931年1月18日 - )は大韓民国の軍人、政治家。韓国第11~12代大統領(在任:1981年 - 1988年)。日本では、漢字の日本語読みで「ぜん・とかん」と読むこともあるが、1980年代以降は韓国語原音に近い読みがマスメディアなどで一般化したので、余り使われなくなってきている。「チョン・ドファン」とも読まれることがある。
慶尚南道陜川生まれ。朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学。同期には盧泰愚らがいた。朴正煕がクーデターを起こすと、陸軍士官学校の生徒を率いて支持を表明。この功績が認められて最高会議議長秘書官に。その後ベトナム戦争に参加し、帰国後は特殊戦略司令部を経て1979年に保安司令官。
朴正煕暗殺事件が起きると、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮する。12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。1980年9月に大統領就任。翌1981年から第五共和国政府がスタートした。1982年には長年続いた夜間外出禁止令を解除した。1984年、戦後の韓国元首として初めて来日、この時には韓国の記念切手にもなっている。
日米との連携を強め経済の活性化に成功するが、1983年に北朝鮮工作員によるビルマのアウン・サン廟で全斗煥を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生。彼自身は一命を取り留めたものの、事件で多くの閣僚を失った。さらに1987年には北朝鮮の工作員金賢姫らによる大韓航空機爆破事件が起き、南北関係は緊迫度を増した。
クーデター後に金大中を含む野党側の政治家を逮捕また軟禁し、非常戒厳令を全国に拡大させ、これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、流血の惨事になった(光州事件)。金大中は軍法会議で死刑判決を受ける(後に無期懲役に減刑)ものの、1982年にアメリカに出国。1987年以降には改憲・反政府運動も活発化し、7月には政権移譲を表明。
退任後には自ら財団を設置し院政を狙うが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、1988年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明した。その後も光州事件や不正蓄財への追及が止まず、死刑判決を受けた(減刑の後、特赦)。2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。
全斗煥に対しては独裁者、虐殺者、在任中の汚職など否定的なイメージで見られることが多いが、その反面、経済発展やオリンピック誘致・スポーツ振興などの功績を評価すべきだという擁護論もある。
全斗煥については、韓国のドラマ『第5共和国』において、その集権過程から没落まで詳しく描かれている。
[編集] 経歴
- 1966年 第一空輸特戦団 副団長
- 1967年 首都警備司令部 第30大隊長
- 1969年 陸軍参謀総長室 主席副官
- 1970年 第9師団 29連隊長(駐ベトナム白馬部隊)
- 1971年 第1空輸特戦団 団長
- 1973年 陸軍准将
- 1976年 青瓦台警護室 次長補
- 1977年 陸軍少将
- 1978年 第1師団長
- 1979年 保安司令官、朴正煕暗殺事件後 戒厳司令部 合同捜査本部長、12.12事態で政権掌握
- 1980年 陸軍中将、中央情報部 部長署理、国家保衛立法会議 常任委員長
- 1980年 陸軍大将、予備役編入、第11代大統領 就任
- 1981年 第12代 大統領
- 1988年 国家元老諮問会議 議長(その後辞任)、不正蓄財と利権介入が発覚し私財の国庫献納と隠遁生活に入る。
- 1996年 粛軍クーデター・光州事件などにより逮捕、死刑を言い渡される(後に特赦)。
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