内藤湖南
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内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月17日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。湖南は号。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋史学者であり、邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで戦前の学会を二分した。
生涯
陸奥国毛馬内村(けまないむら、現秋田県鹿角市)にて、南部藩士・十湾の次男として生まれる。13歳のときに『日本外史』を通読したと言う。秋田師範学校卒業後、綴子小学校(つづれこ)の訓導を努めた後、1887年(明治二十年)に上京。
上京後、大内青巒が主管する仏教雑誌「明教新誌」の記者となり、その後は「三河新聞」や雑誌「日本人」、「大阪朝日新聞」、「台湾日報」、「万朝報」などの編集で名を馳せた。日露戦争に於いては開戦論を展開し、1907年(明治四十年)に京都帝国大学(現京都大学)の文科大学史学科に講師として招かれた。1909年に教授、1910年に時の総長の推薦を受けて文学博士となり、二十年を東洋史担当として勤め、京大の学宝とまで呼ばれた。
内藤の論の代表的なものとして、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って分けるというものがある。内藤は秦漢時代を上古と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。
邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。
白鳥庫吉とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された。
1926年(大正十五年)に退官。京都府瓶原村(みかのはら、現加茂町)に隠棲し読書の毎日を過ごした。1934年6月26日死去。東山の法然院に葬られた。
著作
- 『内藤湖南全集』
- 上記全集には『日本文化史研究』、『支那絵画史』、『支那史学史』、『支那目録学』、『支那上古史』、『支那中古の文化』、『支那近世史』などが収められている。