前川芳男
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前川芳男(まえかわ よしお 1941年11月20日 - )は、昭和後期から平成期(1960年代後半-1990年代)のプロ野球審判員。現在はパシフィック・リーグ審判部長。横浜市立桜丘高等学校から専修大学、興亜電工、横浜ナショナルサービスを経て1967年パシフィック・リーグ審判部入局。
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[編集] 来歴・人物
後に審判部副部長となった五十嵐洋一氏(1998年退職)とは同期生である。審判員袖番号は25(1977年初採用から。ただし、氏が審判員指導員に転じた1998年以降は空き番。パ・リーグでは審判は指導員に転じると袖番号を返上するという暗黙のルールがあるため。)。1995年審判部長就任。1998年4月7日で現役と同時に部長職も退き指導員に転任したが、2005年1月1日付で指導員兼任として部長再就任。引退後に部長として復帰したのは、異例中の異例である。2006年からは指導員を返上し、審判部長としての業務に専念する。
1997年までの成績は、通算3009試合出場、オールスター出場6回、日本シリーズ出場16回(1978年~1988年、1990年~1992年、1994年、1995年)である。記録的な試合にも数多く立ち会った。
[編集] 前川部長が立ち会った有名な試合
- 1978年の日本シリーズヤクルト‐阪急第7戦(阪急・上田利治監督が起こした1時間19分の抗議)でライト側外審
- その年のオールスター第3戦(後楽園球場。掛布雅之の3打席連続ホームラン)と1979年の日本シリーズ広島‐近鉄第7戦(江夏の21球)で球審
- 1980年10月7日の近鉄-日本ハム戦で2塁塁審(この試合、後期優勝マジック1の日本ハムが追う近鉄に負け、そのまま優勝をさらわれてしまう事につながった試合)
- 翌1981年の日本シリーズ(最初で最後の後楽園シリーズ)巨人‐日本ハム第1戦では球審(初めての第1戦で球審)
- シリーズ史に残る日本シリーズと言われた1983年の日本シリーズ、巨人‐西武第6戦で3塁塁審
- 史上唯一第8戦まで行われた1986年の日本シリーズ西武‐広島第8戦でレフト側外審
- 日本中が注目した10.19第2試合と、1点リードの9回表、巨人・屋鋪要のダイビングキャチが生まれた1994年の日本シリーズ巨人‐西武第2戦でそれぞれ球審などなど、数々の記録的・名勝負の試合には欠かせない審判員でもある。
[編集] 前川部長とマスク
- 前川がインサイドプロテクターに変更したのは1986年から。変更してしばらくは昔ながらのバーマスクで球審をしていたが、マスクも途中からフレームマスクに変更。前川愛用のフレームマスク上部にはビニールテープが巻かれてある。本人曰く「日よけと雨よけ、ナイター設備の光でボールが見え難くなるのを防ぐ為に巻いてある。」との事である。