10.19
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10.19(じってんいちきゅう)とは、1988年10月19日に川崎球場で行われた、日本プロ野球のロッテオリオンズ(以下「ロッテ」)対近鉄バファローズ(以下「近鉄」)第25・26回戦(ダブルヘッダー)を指す。パ・リーグ史上、最もドラマチックで球史に残る1日のひとつとして長く記憶されている。
目次 |
[編集] 概説
[編集] 10月18日までの概略
1988年のパ・リーグは序盤から独走する首位西武ライオンズ(以下「西武」)に対し、近鉄が終始2位につけていたものの、最大ゲーム差8(9月15日の段階でも6ゲーム差)と大きく水を空けられていた。しかしここから近鉄が奇跡的な巻き返しを見せ、にわかに熱を帯びる。
- 9月30日時点での西武・近鉄の勝敗(西武と近鉄のゲーム差は1.5)
10月1日・2日に西武と近鉄の直接対決があったが、1日は西武、2日は近鉄が勝つ。その後10月4日には西武が負けて近鉄が勝ったため、近鉄はこの時点でまだ2位ながらマジック14が点灯した。そして近鉄は翌日の試合にも勝ち、ついに首位に立つ。
- 10月5日時点での近鉄・西武の勝敗(近鉄と西武のゲーム差は0、近鉄にマジック13が点灯)
- 近鉄 64勝48敗3分 勝率.571 残り試合15(西武2・阪急2・南海2・ロッテ9)
- 西武 65勝49敗6分 勝率.570 残り試合10(近鉄2・日本ハム2・阪急1・南海4・ロッテ1)
そして10月7日から近鉄は10月19日まで15連戦(10日・19日はダブルヘッダー)、西武は10月16日まで10連戦という過酷な日程を戦うことになっていた。7日・8日にいきなり直接対決があったが西武が連勝。再び首位を奪い返すとともに近鉄に2ゲーム差を付けた。ところが9日から13日まで西武も4勝1敗で乗り切ったが、近鉄がロッテ戦6試合に全勝。近鉄のマジックは消滅せずに減り続けた。14日はともに勝ち、15日はともに負け、16日はともに勝って、ここで西武は全日程を終了する。
- 10月16日時点での西武・近鉄の勝敗(西武と近鉄のゲーム差は0.5、近鉄にマジック3が点灯)
- 西武 73勝51敗6分 勝率.589 全日程終了
- 近鉄 72勝51敗3分 勝率.585 残り試合4(阪急1・ロッテ3)
17日に近鉄は阪急相手に痛恨の敗戦を喫し、この時点で優勝するためには残るロッテ3試合に全勝するしかなくなった。しかし翌日はロッテに二桁得点で完勝。運命の10月19日を迎えることになる。ロッテはすでに最下位が決定しており、しかも近鉄戦は10月の7戦全敗を含めて8連敗中であったので、近鉄が勢いで連勝するのではないかと、ダブルヘッダーが行われる川崎球場は近鉄の奇跡の逆転優勝を期待するファンで超満員となった。近畿地方ではこのダブルヘッダーがABCテレビで完全実況生中継された。
[編集] ダブルヘッダー第1試合
午後3時試合開始。先発はロッテ・小川博、近鉄・小野和義。初回にロッテ愛甲猛が小野から2ラン本塁打で2点を先制し、7回裏にも1点を追加した。近鉄は小川の前に4回までパーフェクトに抑えられるが、5回表に鈴木貴久のチーム初安打となるソロ本塁打で1点を返し、8回表に代打・村上隆行のタイムリー二塁打で3-3の同点。同点のまま9回表を迎える。当時のパ・リーグは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし。9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの9回表に勝ち越さなければならなかった。
その9回表一死、淡口憲治が二塁打で出塁。代走に佐藤純一が送られた。ここでロッテは同点ながら守護神の牛島和彦を投入した。続く鈴木が牛島からライト前に安打を放つ。しかしライトからの好返球のため、同点を焦って三塁を大きくオーバーランした佐藤は、三本間で挟殺。佐藤はショックのあまりその場に崩れ落ち、立ち上がることができない。球場全体を重苦しいムードに包まれた。ここで近鉄・仰木彬監督は梨田昌孝を代打に送る。梨田は1979年、翌1980年のリーグ連覇の立役者であったが、体力の衰えから、この年限りでの現役引退を決意していた。二死ながら一塁が空いており、敬遠もありえる状況だったが、牛島は「今日の近鉄は執念で攻めてくるので、誰と勝負しても同じ」と、敬遠せずに勝負することを選んだ。
梨田の野球人生の全てをかけた一打は、牛島の直球に詰まりながらもセンター前へ抜ける。二塁走者の鈴木は三塁も回り、一挙に本塁へ。センターから矢のような返球がダイレクトに届き、クロスプレーとなるも、鈴木は捕手袴田のタッチをかいくぐりながら横っ飛びでホームに滑り込む。判定はセーフで "4-3"、勝ち越しに成功した[1]。近鉄の選手達は歓喜のあまりグラウンドに飛び出し、ホームベース上では鈴木と中西太ヘッドコーチが抱き合って喜びを爆発させた(この9回表一死から近鉄勝ち越しまでの模様は、日本プロ野球史上屈指の名場面として今も語り継がれ、テレビでも頻繁に再放映されている)。
残る9回裏は、当時の守護神・吉井理人が8回裏から続投。しかし先頭打者・丸山一仁への、ストライクゾーンギリギリの投球がボールと判定され、激昂(丸山は四球)。冷静さを失った吉井は制球が定まらず、続く代打・山本功児に2球連続ボール。ここで仰木監督はリリーフに阿波野秀幸を登板させる。しかし阿波野は2日前の試合に完投したばかりで休養も十分でなく、ヒットやデッドボールで二死満塁としてしまう。迎えた打者は森田芳彦。ヒットどころか四死球すら許されない絶体絶命の状況に球場内の緊張は極限に達する。しかしここは阿波野が踏ん張り、森田をフルカウントからフォークボールで三振にしとめ、試合終了。どうにか勝利をものにする。終了時刻午後6時21分で、試合時間は3時間21分。優勝の行方はついに130試合目である第2試合に持ち越されることとなった。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
近鉄 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 4 |
ロッテ | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 |
[編集] ダブルヘッダー第2試合
第1試合終了から23分後の午後6時44分、第2試合開始。先発はロッテ・園川一美、近鉄・高柳出巳。当時のパ・リーグは(9回で打ち切りとなるダブルヘッダー第1試合を除き)9回終了時点で同点の場合、最大12回までの延長戦を行うことになっていたが、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了を以って打ち切り」という規定もなされていた。
試合はまたしてもロッテが2回裏にビル・マドロックの一発で1点を先制。1-0のまま試合は進んでいったが、近鉄は6回表ベンジャミン・オグリビーの中前打で同点に追いつく。そして7回表、吹石徳一が2号ソロ、真喜志康永が3号ソロ本塁打、脇役二人の一世一代のホームランで一挙二点の勝ち越しに成功する。しかし7回裏、ロッテは岡部明一がソロ本塁打、代わった吉井理人からも、西村徳文のタイムリーヒットを放ち同点に追いつく。しかし近鉄は8回表、ラルフ・ブライアントが34号ソロ本塁打を放ち4-3で再びリード。その裏からは第1試合に続いて阿波野が登板。近鉄の優勝を予感が漂う。しかし、首位打者を争うロッテ高沢秀昭が阿波野の決め球スクリューを捉え、ホームラン。4-4と三たび同点になってしまう。9回表、二死後大石第二朗がツーベースヒットで出塁するも、新井宏昌の三塁線を襲った強烈な打球を三塁手水上善雄が横っ飛び、一塁にダイレクト返球という、超ファインプレーを見せて切り抜け、結局この回無得点に。
そして9回裏、この試合を象徴する事件が起きる。この回、阿波野は連打を許し、無死一・二塁。ここで二塁へ牽制球を投じる。この球が高めに浮き、それを大石がジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川慎一と交錯しながらもタッチしにいく。その際、古川の足がわずかに二塁ベースから離れたとして、新屋晃二塁塁審はアウトを宣告したが、古川が審判に抗議。ロッテ・有藤道世監督もベンチを飛び出し、「大石が古川を故意に押し出した」と走塁妨害を主張し、抗議を始めた。時間の制約を負っている近鉄ナインは気が気ではない。客席からも「有藤ひっこめ!」の大ブーイングの中、結局9分間の抗議を行った。判定は覆らなかったが、残り30分を切った段階でのこの9分間は、近鉄にとって重い時間となってしまった。後日、この試合が語られる時、壮絶な試合展開よりも、この抗議が無ければと注目されてしまうのはこのためである。
その後ロッテは二死満塁、愛甲猛の打球はレフト前へポテン性の当たり。落ちればサヨナラのこの打球をレフト淡口憲治が懸命に前進、地面すれすれでダイレクトキャッチのファインプレー。延長へ望みを繋いだ。
延長10回表、この時点で規定の4時間が迫っており、近鉄の攻撃は事実上これが最後。この回先頭のブライアントがセカンドゴロエラーで出塁。ここで安達俊也が代走として送られる。続くオグリビーは三振に倒れ、先ず1アウト。続いて迎えたバッターはベテラン羽田耕一。しかし、羽田の打球は無情にもセカンド・西村徳文正面へのゴロ。西村自らがベースを踏み、安達がフォースアウト。そして一塁にボールが送られ、ダブルプレー、3アウトとなり、10回表終了。この時、試合開始から3時間57分が経過。残りの3分では10回裏のロッテの攻撃を終わらせることは実質不可能であり、これにより、近鉄の優勝の可能性が消え、西武の優勝(パ・リーグ4連覇)が決まった。
しかし優勝の可能性は消えても、近鉄ナインは10回裏を守らねばならなかった。マウンドを務めたのは加藤哲郎、木下文信の2名の投手。加藤は投球練習を省略し、少しでも試合を早く進めようとしたが、無情にも運命の午後10時44分が過ぎて行った。先頭の丸山一仁に四球を出したが続くビル・マドロックは捕邪飛に討ち取る。そして木下が斎藤巧、古川慎一を三振に討ち取った。テレビ画面には、ベンチ中央に仁王立ちして監督の責務を全うする仰木彬と、涙を浮かべて守備につく選手達が流された。「悲劇の10回裏」「最も短く、残酷な消化試合」と語り継がれている。
こうして4-4の同点のまま午後10時56分に試合終了。所要時間4時間12分。最終順位は1位西武、2位近鉄。最終ゲーム差0.0、勝率差はわずかに.002だった。試合終了後、仰木監督をはじめ、近鉄ナインは敵地ながらグラウンドに出て、三塁側とレフトスタンドに陣取ったファンへ深々と頭を下げ、挨拶を行った。ファンからは温かい拍手と「よくやった」等の労いの声が飛んだ。選手たちは涙を流しながらも帽子を振って応え、球場を後にした。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | R |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
近鉄 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 4 |
ロッテ | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 4 |
[編集] エピソード
[編集] 近鉄
- 就任時は12球団一地味な監督と評された仰木彬であるが、監督就任1年目にして10.19を演出した。試合後の仰木監督は「こんな立派な試合が出来た。悔いはありません」とコメントを残している。
- また仰木監督は、第1試合の9回表1アウト、鈴木のヒットの際に二塁ランナー佐藤が挟殺されたプレイに関して「正直勝つのは無理だと思った」と語っている。仰木の語る通り、球場を埋め尽くしたファンの応援も一気に静まりかえった。
- ダブルヘッダー第1試合、9回裏二死満塁の場面、森田芳彦が空振りしたのはボール球であり、もし見送っていれば押し出しで、近鉄の優勝はその時点で消えていた。それほど、近鉄にとっては薄氷の勝利だったのである。
- 第1試合9回表、現役最後の打席で執念の逆転打を放った梨田昌孝は、二塁ベース上でガッツポーズ。冷静沈着な梨田の、選手生活最初で最後のガッツポーズであった。球団は長年正捕手を務めた功績により、翌年のオープン戦での引退試合を提案したが、梨田は「あの打席を最後にしたい」と、それを辞退した。
- 梨田のタイムリーヒット後のラジオアナウンサーの台詞は「梨田、君は男だ!」。
- 捕手の山下やベンチの梨田はタイミングの合っていない高沢に対してストレートで抑えられると判断していたが、阿波野自身はストレートの調子がよくないとこれを拒否し、スクリューを投じホームランにされてしまった。阿波野は「なぜ自分のストレートを信じた山下さんを信じられなかったのか」と後悔したという。それもあって翌年の優勝の掛かった試合では後悔したくないと全てストレートを投じた。
- チームの主砲ラルフ・ブライアントは父親が危篤状態であったがチームのために日本に残って試合に出場した。そして第2試合で見事に34本目の本塁打を打つ。
- 第2試合9回表に渾身の当たりを内野ゴロにされた新井は「自分にはヒーローになるツキがないのか」と思ったと述懐している。
- 吹石徳一は骨折で登録抹消の金村義明の代役出場であった。第2試合7回表にホームランを打った吹石に「カネ、やったぞ」と声を掛けられ金村は号泣したという。
- 第2試合の10回表が終わった時点での試合経過時間は3時間57分で、規定時間に後3分残っていたが、3分では10回裏を終わらせることはほぼ不可能であった。しかし、近鉄の選手は「それでも3分で終わらせれば新しいイニングに入れる」と声を掛け合い急いで守備に就いた。マウンドの加藤哲郎は投球練習を返上、一塁ベンチ(ロッテ)に向かって「早く出て来い。3分でシメたる」と言ったという。
- 近鉄の選手の話によれば、時間が4時間を経過して優勝がなくなった際に、試合の勝敗などどうでもいい、と思ったらしいが、守りにつくと、勝つことはできなかったが、負けるわけにもいかない、負けたくないと必死に守ったそうである。
- 試合終了後、選手は皆涙を流し、メジャーの元本塁打王オグリビーですら人目をはばからず泣き「何で引き分けなんて制度があるんだ」と嘆いた(メジャーリーグには引き分け制度はなく、決着がつくまで無制限で延長戦が行われる)。オグリビーはこの試合をもって現役引退している。
- 選手・コーチは失意のままバスに乗り込み、東京都港区内のホテルに戻った。ホテルの宴会場では従業員らによって祝勝会の準備が行われていたが、優勝を逃したため撤去作業を行うことになった。しかし、仰木らは「せっかく用意してくれたんだから」と従業員を気遣い、選手・コーチを集めて「残念会」を行う事を決めた。選手は敗戦の悔しさをしばし忘れ、喜怒哀楽が入り混じったテンションで酒を酌み交わした。金村は「みんな、すんませんでした」と、ぐしゃぐしゃの表情で土下座を繰り返していた。またオグリビーは会を中座し、トイレの個室に籠って涙にくれていた。会の最後には選手会長の大石が「来年頑張ろう」と檄を飛ばし、村上と吉田剛のインディアン・ダンスで気勢を上げた。
- この後、引き分け制度への懐疑論が相次ぎ、セ・リーグは反省の結果1990年から引き分け再試合制を導入した(2001年から試合数増のため引き分けが復活)が、パ・リーグではのちに時間制限が撤廃されたに過ぎなかった。
- しばしば「勝ちに等しい引き分け」「うちのチームには苦しい引き分け」と試合終了後に監督がコメントすることがあるが、まさしく「負けに等しい引き分け」がこれほど適当な試合も他に例がないであろう。試合終了後の選手のコメントの中にも「引き分けなのに負けた」というものがあった。
- 無念のV逸から360日後の1989年10月14日、近鉄は9年ぶりのリーグ優勝を成し遂げる。この年は近鉄、オリックス、西武による三つ巴の激しい優勝争い(最終的に優勝した近鉄から3位の西武まで0.5ゲーム、勝率2厘差)が最後の最後まで展開され、近鉄にとっては前年の無念を晴らす形となった。「前年の"10.19"がなければ、この年の近鉄の優勝はなかった」などという声も少なくない(その事については後述)。
- この試合に出場した近鉄の選手達が現役引退する際、「選手生活で一番印象に残る思い出は」という質問に対して、殆どの選手が「10.19のダブルヘッダー」と答えている。
- これらの試合に出場した選手で2007年現在も現役選手なのは、両チームを通じて吉井理人投手(現・オリックス・バファローズ)ただ一人である。
[編集] ロッテ
- 最下位ロッテの頑張りがダブルヘッダーを大いに盛り上げた反面、近鉄のシーズン土壇場での追い上げはロッテの弱さにも一因があった。ロッテは第1試合で負けたので対近鉄戦9連敗となっていた。もし第2試合を落としたら同一カード10連敗ということになっていたので、ロッテにとっては順位に関係が無くても、そう簡単に負けるわけにはいかない状況だった。
- 第二試合9回表の水上の三塁線の超ファインプレーに対して、実況していた安部憲幸は「THIS IS プロ野球!」という名言を残した。
- マドロックは今期限りでの解雇が既に決定していた。本来外国人選手が解雇されれば即帰国するのが普通だが、彼は残ってシーズン終了までプレイし続けた。そのマドロックがダブルヘッダー第2試合で先制ソロホームランを放ったのだが、単純に解釈すれば、もし帰国していればそれによる1点が入らず近鉄が1点差で勝利、そして優勝していたかもしれないので、後述の高沢、有藤と並んで近鉄優勝の夢を打ち砕いた人物と思っているファンも少なくない。
- 高沢はこのとき阪急ブレーブスの松永浩美と熾烈な首位打者争いを行っていた。この本塁打で高沢は松永を制し、たった一厘差で首位打者を獲得した。
- 有藤は後のNHKドキュメントで、第二試合9回裏の「あの抗議は、結果としてはしない方がよかった」などと述べている。また、Numberより発刊されたこの試合のビデオでのインタビューでは、先述と同様の発言に加えて「白黒ハッキリした方が良かった」という主旨の発言もしている。
[編集] 西武
- 監督の森祇晶は、10月7・8日の直接対決で近鉄に連勝した時点で、一度は優勝を確信したという。この時点では近鉄にマジックが点灯していたが、西武に連敗したことでそれまでの勢いが止まると読んでいたのだろう。しかし西武は残り試合を6勝2敗で乗り切ったが、近鉄はこの間8勝1敗だったため、ジリジリと近鉄のマジックは減っていった。西武が全日程を終了した次の日(17日)に近鉄が敗れたため、近鉄が残り試合に全勝しない限り西武の優勝が決まる所までいったが、翌18日は近鉄がロッテに大勝する。ここに至って、森は近鉄に10月だけで7敗目のロッテのあまりの不甲斐なさに呆然とし、動揺が生まれたという。
- 10月19日の試合結果待ちとなった西武は、西武球場をファンに開放し、電光掲示板でロッテ - 近鉄戦を生中継していた。監督以下選手たちも西武球場に待機し、第1試合の7回裏、ロッテが2点リードすると選手たちはユニフォームに着替え、胴上げのためベンチ入りした。しかし、森は2点のリードでは安心できないとユニフォームを着ることを拒んだ。そして、第1試合は近鉄が勝った。
- 第2試合が始まると、森は秋季キャンプの会議を始めた。試合に一喜一憂するより、来期に向けた話し合いをした方が気が休まったからである。
- 内野守備走塁コーチを務めていた伊原春樹は会議が終わると、精神的苦痛のためか、家に帰ったという。
- 森は球場の駐車場に停めてあった自分の車に乗り込み、カーラジオで試合を観戦した。延長10回裏、西武の優勝が確実になった状況で、新聞記者たちが集まってきた。しかし、「まだロッテの攻撃時間がある」と押しとどめ、ロッテよ、攻撃に時間をかけてくれと祈った。午後10時44分、正式に西武の優勝が決まると、「選手たちが本当によくやってくれた」とコメント。西武球場に集まった数百人のファンの前で、選手たちに胴上げされた。
- こうして優勝をもぎ取った西武のチームリーダー・石毛宏典は「こんなんで負けたら近鉄に申し訳ない」と日本シリーズを必ず制することを誓った。その後の日本シリーズで中日ドラゴンズと対戦して日本一を勝ち取ったが、その時に清原和博が「これで近鉄に顔向けができる」というコメントを残している。なお、その近鉄監督の仰木は清原のこの台詞を聞いて「なんと男気がある選手なんだろう」と感心。それ以来清原に一目置くようになり、その生涯の最末期にオリックス・バファローズのシニア・アドバイザーを務めていた際、読売ジャイアンツを戦力外になっていた清原を真っ先に勧誘し、入団にこぎつけている。
[編集] その他球界
- この年のセ・リーグ優勝チーム、中日ドラゴンズは名古屋市のホテルで日本シリーズ前の合宿を行っていた。監督の星野仙一はこの試合を自室でテレビ観戦し、日本シリーズでの対戦相手の行方を見守りながら、ふと「闘っている仰木さんの立場だったらどうだろうか、結果を待っている森さんの立場だったらどうだろうか」などと、自分と同じ“監督”としての立場を考えつつ、勝敗とはまた別のところに想いを巡らせていた。
- パ・リーグの優勝決定はこの近鉄の最終戦までもつれたため、日本シリーズの前売入場券のうちナゴヤ球場開催分の入場券は、対戦カードを「中日 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」と表記する措置が執られた(引き分けによる日程の追加など特別な事情がない限り日本シリーズのチケットは全てシリーズ開始前の前売りである)。但し、かつてはリーグ優勝の決定がシリーズ直前までもつれるケースが何度かあったため、これは1988年に限ったケースではない。
- ダブルヘッダー第1試合で球審を務めた橘修は「7回辺りから球場全体の雰囲気が異様になり、マスクをしていても胸が絞めつけられそうだった」と述懐している。橘はこの時の冷静かつ正確なジャッジが評価され、パ・リーグ優秀審判員賞を受賞した。
[編集] ファン・球場
- 川崎球場はもともと1日あたりの観客数が非常に少なかったことでも知られ(この年も観客動員数は12球団中最下位)、シーズン当初ロッテ球団は1シーズン有効(ただし使える試合は1つだけ)の無料招待券を近隣住民をはじめ多くの人々に大量に配っていた。たとえ配っても観客はそう集まらないと考えていたからであり、その予想通り観客は集まらなかった。またこの年はロッテは最下位を独走しており、優勝などは考えられなかった。
- 10月19日に近鉄が川崎球場で優勝を決める確率が高くなっても、ロッテ球団関係者は全く慌てていなかった。事実、この日の前日になってもたとえ観客がいつもより多いとはいっても、せいぜい日曜日の試合くらいしか集まらないだろうと思われていた(ちなみに日曜の試合でも定員の半分くらい)。
- しかし予想はあっけなく覆され、この無料招待券を持った客が血相を変え大挙して球場に殺到。ファンの一部には金券屋や持っていた人から譲り受けたり買い取ったりした人々もいた。当然の事ながらこのチケットはシーズン全体を考えて配っていたので、球場の定員を大幅に上回る人が球場に集まり(チケットをもらってもこの日まで全く使わなかった人が大半だったから)、球場に入れなくなる人が続出、しまいには球場に隣接する雑居ビル、アパートの上の階から「無料」観戦する人まで現れ、アパートの階段がいっぱいになってしまった。
- 無料チケットで入れる自由席に入場制限がかけられると、今度は指定席が飛ぶように売れた。しかし普段観客の入らない川崎球場では、定員分の券をあらかじめ用意していなかった。発券作業も機械ではなく手作業で席番のハンコを押すというものだったため、観客の列に発券が追いつかなくなり、急遽席番無しの立ち見券を発行。この時点で空席はまだあるのに、指定席で立ち見券を売ったのも前代未聞であった。
- 上記の理由で、超満員の観客はチケット売り上げ増には余り貢献しなかったが、構内や近辺の売店は大わらわ。普段では考えられない満員の観客のため売られている食べ物や飲み物が売れに売れる事態となり、更に第1試合と第2試合の間のインターバルが夕食の時間とほぼ重なったため、第2試合が始まる頃にはほとんどの食べ物、飲み物が売り切れてしまった。
- この日の川崎球場には「本日仰木胴上げ日」という横断幕を掲げて応援するファンもいた。観客の9割近くが各地から動員された近鉄ファンおよび(どちらのファンでもないが)近鉄を応援する人々であり、さらにホーム応援席にはロッテの勝利を願う西武ファンもいたため、ホームである真のロッテファンはさらに少なかったことになる。
[編集] マスコミ
- この日の夕方、阪急ブレーブスがオリエント・リース(翌年4月、社名をオリックスに変更)に身売りされることが決定した。9月に南海ホークスがダイエーへ身売りされることが決まった際にはマスコミもその情報を以前からキャッチしていたが、阪急の身売りは全くの予想外で、この日のスポーツマスコミは「10.19」と「阪急身売り」の対応に追われ大忙しだったという。ちなみにこの日オリエント・リース本社では阪急買収に関する記者会見が行われたが、「オリエント・リース」という会社の知名度が乏しかったこともあって、間違えてオリエントファイナンスに行ってしまった記者もいたという。余談であるが、この阪急と南海の身売りによって、パ・リーグ創設以来経営母体が変更されたことがない球団はこの日をもって、偶然にもこの日ダブルヘッダーを戦っていた近鉄だけになってしまった。翌日のスポーツ紙の一面は日刊スポーツとサンケイスポーツでは「阪急身売り」だった。
- 関東地方では当初この試合の中継予定はなかったが、テレビ朝日が「ニュースシャトル」内で随時川崎球場からの中継を差し込んで放送、少しづつ試合中継を放送するうちに「もっと見たい」「(プロ野球)中継を続けてくれ」と視聴者からの電話が殺到したため、ディレクターの独断で急遽番組予定を変更して第2試合途中の午後9時から全国放送(近畿では、前述のとおり系列のABCテレビが第1試合から完全中継した)。しかも当時人気番組であった「さすらい刑事旅情編」と差し替えた上にCMを入れないという民放ではおおよそ考えられないことをやってのけ(後に久米宏曰く「スタッフが試合に夢中でCMを入れそこなってしまった」)、そして午後10時からの「ニュースステーション」もメインキャスター・久米宏が番組冒頭部分から「今日はお伝えしなければならないニュースは山ほどあるのですが、このまま野球中継を続けます」「川崎球場が大変なことになっています!」の一言と共に本来のニュース番組としての内容を全て飛ばして放送し、中継を続けた。いかに全国の野球ファンがこの試合の行方を固唾を呑んで見守っていたかがわかる。
- この試合の中継放送は、近畿地区では視聴率46.7%、関東地区では視聴率30.9%と、日本シリーズ以上の驚異的な高視聴率を記録した。ちなみにこれは18年にわたって放送されたニュースステーションの最高視聴率となった。
- この年の年末のニュースステーションで、今年記憶に残ったニュースとして10.19を取り上げ、ドキュメンタリーの形で数十分にわたって放送した(そのようなことが行われるぐらい、この試合の中継は世間の反響を呼んだのである)。
[編集] 翌年の10.12へ
翌年1989年のパ・リーグは、オリックスの開幕8連勝で始まり首位を独走、6月末時点で2位近鉄に8.5ゲーム差をつけたが、ここから近鉄が猛追、7月を14勝6敗で大きく勝ち越しオリックスを捉えた。しかし、9月に入ると西武が猛追、首位が目まぐるしく入れ替わる大混戦を演じた。そして天王山、10月10日からの西武対近鉄直接対決3連戦を迎えた。この時点で首位西武と3位近鉄とのゲーム差は2.0。近鉄はあと2つ西武に敗れた時点で優勝が消滅するという状況であった。
10月10日、西武対近鉄戦。西武が敗れ同日オリックスがロッテに勝利すれば、オリックスにマジック4が点灯する状況であった。試合は西武先発渡辺久信と近鉄先発山崎慎太郎の緊迫した投手戦となったが、8回表、ハーマン・リベラの勝ち越しソロホームランにより3-2で近鉄が勝利した。なお、オリックスは投壊により4-17でロッテに大敗したが、試合後西武の敗戦を知らされた、オリックス・上田利治監督は「そうかっ」と表情を変えたという。
流れは近鉄にあったが、10月11日は雨のため、西武対近鉄戦、ロッテ対オリックス戦共に試合中止、両試合とも急遽翌日にダブルヘッダーが組まれた。そして運命の10月12日を迎えた。
10月12日、西武対近鉄(西武ライオンズ球場)のダブルヘッダーが行われた。西武が連勝し、同日オリックスが連敗すれば西武の優勝決定という状況であったが、第1試合、近鉄は0-4の劣勢から主砲・ラルフ・ブライアントが、西武先発郭泰源から4回表にソロ、6回表に同点に追い付く満塁ホームラン、そして5-5で迎えた8回表、再びブライアントに打席が回ってきた。西武・森祇晶監督はここまでブライアントを押さえ込んでいた渡辺久信をマウンドに送ったが、ブライアントは渡辺久信の4球目、ライトスタンドに突き刺さる勝ち越しソロアーチを放ち、6-5で第1試合近鉄勝利。第2試合も中3日のエース阿波野秀幸を立てて14-4で近鉄が連勝した。なおブライアントは第2試合3回表にも西武先発高山郁夫から2-2の均衡を破るソロホームランを放ち、4打数連続本塁打を達成、「奇跡の4連発」と語り継がれている。近鉄にマジック2が点灯。また、オリックスも10-2、14-2でロッテに連勝した。
ダブルヘッダー第1試合。開始 午後2時半
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
近鉄 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 6 |
西武 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 |
- [審判]五十嵐(球)東 中村浩 山崎(塁)小林一 斎田(外)
ダブルヘッダー第2試合
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
近鉄 | 2 | 0 | 4 | 3 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 14 |
西武 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 4 |
- [審判]寺本(球)新屋 小林一 中村稔(塁)東 山崎(外)
10月13日、ロッテ対オリックス戦、舞台は同じく川崎球場。ロッテの先発は奇しくも10.19第2試合と同じ園川一美。ロッテは5回裏に愛甲猛がオリックス先発佐藤義則から逆転スリーランホームラン。8回表から抑えに伊良部秀輝を投入。5-3でオリックス痛恨の敗戦。近鉄についにマジック1が点灯した。前年、近鉄の優勝を最終戦で阻止したロッテが、今度は近鉄の優勝をアシストした形になるという、皮肉ではあるが、しかし劇的な展開であった。
そして10月14日、本拠地藤井寺球場での近鉄対ダイエー戦。近鉄ファンで超満員に膨れ上がった藤井寺球場は、試合途中から観客席で大ウェーブが何度も起きるなど、尋常でない盛り上がりとなった。7回表から阿波野秀幸が胴上げ投手として登板すると、スタンドからは前年同様の阿波野コールが沸き起こる(ただ、この采配は吉井理人には不満の残るものであった。詳細は吉井の項を参照)。5-2でダイエーを降した近鉄はオリックスをゲーム差なしの勝率1厘差で上回り、9年ぶりのリーグ優勝を果たした。ファンも選手達も涙を流した。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ダイエー | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 2 |
近鉄 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 1 | 1 | X | 5 |
- [審判]村田(球)林忠 前田 永見(塁)岡田哲 柿木園(外)
[編集] 関連項目
- 10.8決戦
- メークドラマ
- 江夏の21球
- 大阪近鉄バファローズ ※当時は近鉄バファローズ
- 千葉ロッテマリーンズ ※当時はロッテオリオンズ
- 西武ライオンズ
- 川崎球場
- ダブルヘッダー
- さすらい刑事旅情編
- ニュースステーション
- 久米宏
- テレビ朝日
- 朝日放送
- 西野義和 ※第1試合の実況を担当
- 安部憲幸 ※第2試合の実況を担当
- 橘修 ※第1試合の球審
- 前川芳男 ※第2試合の球審
- 野球番組の歴代視聴率一覧
- Number
[編集] 参考文献
- 佐野正幸 『1988年『10・19』の真実―平成のパリーグを変えた日』 新風舎、1999年5月、205ページ、ISBN 4797409304
- 森祇晶 『覇道―心に刃をのせて』 ベースボール・マガジン社、1996年2月、283ページ、ISBN 4583032773
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