加藤暠
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加藤 暠(かとう あきら、1941年? -)は1980年代に株投機(仕手筋)集団「誠備グループ」を率いて「兜町の風雲児」と呼ばれた相場師。
この業界では、伝説的人物として知られる。2003年、株式研究の会「泰山」を立ち上げ、業界に本格復帰。現在も、加藤が手掛ける銘柄は「k筋」「k銘柄」などと呼ばれ、今なお強い影響力を持つ。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
広島県佐伯郡能美島高田生まれ。3人兄弟の末弟で母は2歳の時亡くなる。父親も相場師で投機の失敗から一家は離散。加藤は3歳の時、広島市内の親戚宅に預けられた。加藤4歳の1945年夏、爆心地から1.5キロで被爆。しかし瓦礫の中から奇跡的に救出された。
子供の頃から勉強は良く出き、名門の広島修道高等学校に進学。高級官吏になるのが夢だった。だが原爆の後遺症か喀血、肺結核の療養にその後4年を要した。当時の結核はまだ難病で、霊峰宮島を望む療養所での生活が、後年の宗教へ傾倒するきっかけになったのでは、と言われている。
療養後は山口県立岩国高等学校に編入。早稲田大学商学部をトップで合格し上京した。早大在学中は勉強とアルバイトに精を出したが、アルバイトで儲けた金でギャンブルにも夢中になった。
[編集] 職歴
大学をトップクラスで卒業したものの、4年の遅れは大きく一流企業に就職する事は出来なかった。中堅証券会社に就職し、父親と同様に「相場師」としてのキャリアをスタートさせる。しかし、支店長とケンカし1年で退職。
この後は、キャバレーに就職し支配人を任されるまでいくが、自己の目標とは違い退職。この後、経営コンサルタント会社に就職、再び株を運用し高い実績を挙げた。が、この会社の社長が殺人事件を起こし、この会社も辞めた。
この後、黒川木徳証券の歩合外交員として、兜町に復帰した。ここで説得力のある弁舌と、明晰な頭脳、また人間的魅力で顧客を獲得していった。特に総会屋を通じて、大企業の経営者、政治家に近づいたと言われる。ヂーゼル機器株の仕手戦で、笹川良一の信頼を得てから、更に力を付けたものらしい。
[編集] 概要
加藤暠は、顧客の人望が厚く、医師・社長・政治家などの約800人の大口投資家を糾合し、「誠備グループ」と言う名の投資家集団を結成した。誠備とは、台湾の土着宗教、紅卍教(こうまんじきょう)に由来する。
1980年頃の活動は、小型株に投機する「兜町最強の仕手筋」として注目を集めていた。特に、株式市場を支配する四大証券、野村・日興・山一・大和を目の敵にし、「個人投資家主体の市場へ変えよう」と力説。加藤崇拝者が増大し、最盛期には会員が4000人を超えた。破天荒な新しい時代の相場師として、「兜町の風雲児」とマスコミも大いにはやし立てた。
特に、誠備グループが全力投入した「宮地鉄工所の仕手戦」は、有名であった。同社は、同グループにより買い占められ、役員の派遣を受けた。加藤が手掛けた銘柄はどれも大きく値上がりし話題を呼んだ。1980年の所得は7億円を超えたと言われた。
宗教にものめり込み、度々四国八十八ヶ所を回った。この全ての寺に百万円の札束を御布施として置いたといわれる。伊勢神宮参拝も歴代首相も入れない一番奥まで参内を許されたという。またこの年世間を騒がせた「一億円拾得事件」のお金も加藤が落としたもの、と噂された。
[編集] 裏社会の顔
人望のある仕手筋としての顔を持つ反面、裏社会を後ろ盾としたと言われており、テレビの特集のインタビューで「明日の朝には、私の首がその辺に転がっているかも知れない」とも述べるなど、政財界・裏社会などとの繋がりを匂わせている。またこの頃、故郷能美島に加藤家の墓を建てるため帰郷した折には、防弾仕様の車で、屈強なボディガード付きだったという。
その後、官民共同の加藤包囲網により1981年2月、東京地検特捜部に逮捕され、「所得税法違反」という罪名で実刑を喰らったが、もちろん東京地検の真の目的は、顧客名と黒幕を吐かす事であった。厳しい取調べで吐くだろう…との予想だったが、加藤は断固して顧客名を明かさなかった。
この事から、さらに男を上げ、出所後も業界に復帰する事となった。加藤の顧客は、大物政治家・大物経済人・著名スポーツ選手・著名芸能人がズラリいたとされ、加藤が口を開けばみな失脚したであろう、と言われた。
2年半小菅の東京拘置所に収監されたが1983年8月保釈。1988年東京地裁で判決が下り、起訴事実の主要部分が退けられ、加藤側の「実質無罪」となった。判決の日には多くの加藤ファンが傍聴席に詰め掛けたといわれる。
[編集] 仕手
この後再び兜町に復帰。稲川会会長・石井進と組んで、「バブル期最後の戦い」といわれた、本州製紙の仕手戦を仕掛けた。しかし、石井の病死などで加藤を支える人脈が崩壊、1990年にはバブルも崩壊し、株の熱気も一気に冷めた。さらに、証券大手と総会屋の癒着や証券大手と大蔵省との癒着問題が表面化し、関係者が次々逮捕・辞任し、一層株式市場は冷え込んだ。
その後は影を潜め、一時は「加藤は死亡したのでは」との噂も流れたが、1995年に「新しい風の会」を設立。2003年には、株式研究の会「泰山」を立ち上げて、証券界に本格復帰した。泰山とは道教の総本山がある中国の山の名。
一般に、加藤の仕手グループはネット掲示板などでは、「k筋」と呼ばれている。加藤が手がけようとしている銘柄は、「加藤銘柄」「泰山銘柄」「マルk」などと呼ばれる。
[編集] 関連書籍
モデルにした小説
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- 清水一行の小説『擬制資本』は、誠備による「宮地鉄工所の買占め」を描いている。
参考文献
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- 『天下泰平』 川本典康 文芸社
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