北戴河区
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北戴河(ほくたいが、ピンイン:Běidàihé)は中国・渤海湾に臨む著名なビーチリゾートで、河北省秦皇島市の区の一つである。面積は70.3平方キロメートル、海岸線の長さは22.5km、人口は6.1万人である。北京からは東へ280kmの位置にあり、比較的気軽に訪れることのできる観光地である。
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[編集] 概要
北戴河は温暖な気候であり、大陸性気候ではあるが海の調節により海洋性気候の特性も併せ持つ。区域の70%を森林に覆われ、夏の平均気温は24.5℃にとどまるため、避暑地ともなっている。
北戴河の風光明媚さは広く知られている。細かな砂からなる浜辺が戴河河口から東へ伸び、別荘地街の先にある鴿子窩(Geziwo)にある鷹角亭(Yinjiao Pavilion)まで10kmにわたって広がっている。鴿子窩は渤海湾に登る日の出を見るスポットとして知られている。浜辺の背後には聯峰山という二つの頂のある豊かな松や杉に覆われた山がある。豊かな緑、洞窟、美しく飾られた楼閣、人里離れた小道や多くの橋が山のあちこちにあり、中国各地からの観光客を魅了している。
北戴河鳥類保護区は、ビーチとは反対側の町の東側の海辺に広がり、バードウォッチングの名所となっている。北戴河東側の海辺の浅瀬は東アジアでも重要な渡り鳥の中継地であり、毎年多くの鶴などの渡り鳥がシベリアから南へ渡るのにここを通過してゆく。北戴河の鳥類標識調査所は鳥類に足環などを巻いて調査(バンディング)しているが、中国でも最多のバンディングを行っている調査所である。また近隣には、金山嘴の秦代の建築遺址や多くの古墳など文化財もある。
[編集] 避暑地としての開発
清朝の光緒年間(1875年~1908年)、夏の気温が40℃に達する北京に多く住んでいた外国人たちは避暑地を求めていた。1890年代、英国人の鉄道技師が漁村だったこの地に美しい砂浜と涼しい気候を見出した。すぐに多くの外国人の知るところとなり、彼らはこの地への別荘建設の許可を要求した。これに応じ、光緒24年(1898年)清朝政府は北戴河を「各国人士のための避暑地」として正式に開発・開放した。
1938年、豊かな中国人や北京・天津の外国人たちによる別荘の数は700棟以上に達し、中央政府や多くの大規模な地方政府・企業などが200ヶ所余りの療養所を建設した。
新中国発足後、これらは政府に没収され、労働者向けの療養所や政府幹部の別荘となった。模範的な労働者は努力の報奨としてこれらの療養所へ行くことができた。1954年にはソビエト連邦から中国の経済建設の指導に来る「社会主義の兄弟」たちをもてなす巨大な「友情のゲストハウス」が建設された。
[編集] 北戴河会議
北戴河が党幹部の保養地として一般の立ち入りを制限していた頃、毛沢東はじめ中国共産党の指導者たちは7月になると必ず北戴河へ避暑と休養に行き、その間、戦略的に重要な議題を話し合う非公式の会議群(俗に「北戴河会議」と呼ばれる)を数多く開いたため、「北戴河」は一定の政治上の意味を持っていた。あるアメリカの外交官は北戴河のことを「smoke-filled room」(秘密会議用の部屋)と呼んでいた。ここで根回しされた政策は秋以降、公式の会議で正式に決定するため、外交官やチャイナ・ウォッチャーたちは北戴河での情報収集を重視していた。
北戴河会議は文化大革命時に一旦なくなったが、鄧小平時代に復活した。しかし1980年代後半以降、避暑地での党務が批判的に見られるようになると、幹部が全員そろって北戴河に集まることはまれになり、やがて北戴河会議も幹部が個人的に会って話し合いをする小規模なものになって重要性は薄れていった。
2003年か2004年には、胡錦濤国家主席は北戴河会議を廃止したと見られる。一つには、従来の儀礼や式典を廃止するなど党の質素なイメージ作りを進める胡錦濤や温家宝らの目的には、リゾートに集まっての会議はそぐわないこと、もう一つは、胡錦濤は非公式な会合よりも党や政府の正式な機構を通してリーダーシップを発揮しようとしていることがあげられる。
[編集] 庶民のリゾート化
北戴河は近年都会からの観光客誘致に力を入れており、今後はいっそう幹部の会議場から一般庶民のリゾート地、国内・国際会議の開催地へ変換が進むものと思われる。
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