南条徳男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南条 徳男(なんじょう とくお、1895年7月7日 - 1974年11月1日)は、昭和期の政治家。元建設大臣・農林大臣。大東文化大学の理事長・学長も務めた。
[編集] 来歴・人物
北海道胆振支庁室蘭村(現・室蘭市)生まれ。仙台の東北中学校(現・東北高等学校)、第二高等学校を経て、1920年東京帝国大学法学部独法科を卒業。弁護士となる。東大では岸信介と同期だった。学生時代から日本の人口・食糧問題に関心を持ち、自身の「ブラジルへの100万人移住」構想を実現すべく、立憲政友会に入党する。また当時総裁だった原敬に面会し、移民政策について意見を述べたことがある。当時の帝大生の地位の高さが偲ばれる。1923年には立憲政友会法曹団を結成し幹事長となる。
1936年、第19回衆議院議員総選挙に政友会から旧北海道4区にて当選する。以後通算11回当選。前田米蔵の側近となり、前田が1936年廣田内閣に鉄道大臣として入閣すると秘書官として、1944年小磯内閣の運輸通信大臣になると参与官としてそれぞれ仕えた。
戦後は日本進歩党の結成に参加したが戦時中翼賛議員であったため公職追放される。追放解除後の1952年、岸信介が日本再建連盟を結成するとこれに参加し、同年の総選挙で自由党から立候補、当選し中央政界に復帰する。1954年に岸が自由党を除名されると、南条は同士らと離党して日本民主党結成に参加し副幹事長となる。1956年石橋内閣で建設大臣として初入閣を果たす。
岸の首相退陣後は藤山愛一郎派に移る。1960年第1次池田内閣で農林大臣に就任。藤山派の番頭格であったが、1968年の自由民主党総裁選への対応を巡って、立候補を目指す藤山と佐藤栄作3選を支持する南条とで意見が対立し、南条は平井太郎・床次徳二ら衆参十数名の傘下議員とともに派閥を離脱、福田赳夫派に合流する。1972年政界を引退。
東大卒でありながら、エリート臭を感じさせない、いかにも党人派らしい大ざっぱで野人的なキャラクターで親しまれた。1974年勲一等旭日大綬章受章。
1974年11月1日、心筋梗塞により逝去。享年79。
[編集] エピソード
柔道は4段の腕前で、新人議員の頃松本治一郎を議場で投げ飛ばし、報復を避けるため1ヶ月ほど外泊を続けたことがある。
|
|
|
|
|
|