石橋湛山
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生年月日 | 1884年(明治17年)9月25日 |
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出生地 | 東京市麻布区芝二本榎 (現・東京都港区) |
出身校 | 早稲田大学大学部文学科卒業 |
学位・資格 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 学士(早稲田大学) |
前職 | 衆議院議員 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年2月25日 |
選挙区 | 静岡県第二区 |
当選回数 | 衆 |
所属(推薦)党派 | 自由民主党 |
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年(明治14年)9月25日 - 1973年(昭和48年)4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。戦前に小日本主義を唱え、戦後は政界で活躍した。
「湛山」は、日蓮宗の僧侶として得度してからの名前であり、それ以前は「省三」と言った。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1884年、日蓮宗僧侶・杉田湛誓・きん夫妻の長男として生まれた。父の湛誓は、東京大教院(現・立正大学)の助教補(助手)を務めていた。後に総本山身延山久遠寺第81世法主に選ばれた人物である。母きんは江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋家の娘。故あって、母方の姓である石橋を名乗った。
1885年、父が郷里山梨県南巨摩郡増穂村の昌福寺住職へ転じたため母と共に甲府市稲門へと移住した。
1894年、父が静岡市の本覚寺住職に転じることになり山梨県中巨摩郡鏡中条村の長遠寺住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)の下で育てられた。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出したが父母からの返事はもらえなかったという。湛山自身は「もし望月師に預けられず父の下に育てられたら、あるいは、その余に厳格なるに耐えずしくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない。」と「湛山回想」に記している。
1902年、3月山梨県立第一中学校卒業。4月第一高等学校受験のため上京。しかし7月の試験は不合格となった。翌年再度受験したがまたもや失敗し早稲田大学高等予科の編入試験を受け合格し9月に入学した。こうして東京での下宿生活が始まった。
[編集] ジャーナリスト時代
早大を卒業すると、毎日新聞社、兵役を経て、東洋経済新報社に入社し、主幹・社長を歴任した。
部下の高橋亀吉と共に、経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては新平価での金本位制復帰を主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張した勝田貞次や堀江帰一たちや、大蔵大臣として金解禁を旧平価で行った井上準之助と論争した。又、加工貿易立国論を唱えて、満州の放棄を主張するなど、リベラルな言論人として知られた。
行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。
日中戦争が勃発してから敗戦に至るまで、『東洋経済新報』誌上にて、長期戦化を戒める論陣を張った。署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたち(例:清沢洌)にも、同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の論調は、常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する、といった物であったため、同誌は政府・内務省から常に廃刊の標的にされながらも、『改造』や『中央公論』のような、政府によって廃刊される事を免れた。
敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で、科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るい、とする先見的な見解を述べた。
[編集] 政治家時代
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、自由党から総選挙に出馬して落選したが、第一次吉田茂内閣では大蔵大臣として入閣した。
大蔵大臣在任時には、デフレーションを制えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や、復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。
しかし、戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでGHQと対立し、1947年に公職追放令により公職を追放された。1951年に追放が解除された後は、吉田の政敵であった自由党鳩山一郎派の幹部として、打倒吉田内閣に動いた。1953年の第一次鳩山一郎内閣で通商産業大臣に就任した。
後の1955年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田を継承した緒方竹虎の自由党が合同して、自由民主党が結成され、石橋もこれに入党した。
1956年に、鳩山首相の引退を受けて、鳩山の後継を争う自由民主党の総裁選に立候補した。総裁選の当初は、岸信介優位であったが、石井光次郎と二位・三位連合を組んだ。1回目の投票では岸が一位であったが、決選投票で岸に7票差で競り勝って、総裁に当選し、また内閣総理大臣に指名された。
石橋は、中華人民共和国との国交回復などを主張し、国民の期待も高かったが、内閣発足直後に病に倒れ、僅2ヶ月で辞職した。真冬にも関わらず、積極的に有権者の話を聞くべく各地を回ったために、肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候がある事が判明したのである。
石橋は、かつて『東洋経済新報』(現『週刊東洋経済』)において、暴漢に襲われて帝国議会への出席ができなくなった当時の浜口雄幸首相に対して、退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を騙く事態になる、と考えたのである。
総裁退任後も、少人数ながら石橋派を率いた。1959年に訪中し、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど、自民党内鳩派の重鎮として活躍したが、1963年の総選挙で落選し、そのまま引退した。
[編集] 年譜
- 1884年9月:東京市麻布区芝二本榎(現・港区)に生まれる
- 1885年3月:父が山梨県南巨摩郡増穂村の昌福寺住職に転じたことに伴い母と共に甲府市稲門に転居
- 1894年9月:父が静岡市の本覚寺住職就任のため山梨県鏡中条村の長遠寺住職望月日謙に預けられる
- 1895年4月:山梨県立尋常中学校入学
- 1902年3月:省三を湛山と改名 山梨県立第一中学校卒業
- 1903年9月:早稲田大学高等予科に編入
- 1904年9月:早稲田大学大学部文学科(現・文学部)哲学科へ進級 当時の校長は鳩山和夫
- 1907年7月:早稲田大学大学部文学科を首席で卒業(英文科を含む)。特待研究生として宗教研究科へ進級
- 1908年7月:宗教研究科修了 島村抱月の紹介で東京毎日新聞社入社
- 1909年8月:同社退社 12月:東京麻布の歩兵第3連隊に入営
- 1910年11月:軍曹に昇進し除隊 翌年9月見習い士官として3ヶ月召集をうける
- 1911年1月:東洋経済新報社に入社 『東洋時論』編集を担当
- 1912年11月:岩井うめと結婚 岩井家は江戸時代、米沢藩士として家老職を務めた家柄
- 1913年:陸軍歩兵少尉
- 1915年11月:東洋経済新報社の合名社員に選ばれる
- 1924年9月:鎌倉町議会議員に当選(~1928年8月) 12月:東洋経済新報社第五代主幹に就任
- 1925年1月:東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任
- 1935年9月:内閣より内閣調査局委員に任ぜられる
- 1940年11月:東洋経済研究所を設立し所長ならびに理事に就任
- 1941年2月:東洋経済新報社の社長制新設にともない代表取締役社長に就任
- 1945年3月:早朝の大空襲で東京芝の居宅焼失
- 1946年3月:山川均提唱の民主人民連盟世話人会に参加 4月:戦後初の総選挙に立候補し落選 5月:第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任。
- 1947年4月:静岡県第二区より立候補し初当選 5月:公職追放となる。
- 1951年6月:公職追放解除、自由党に復党 12月:立正大学学長に就任。
- 1953年3月:政策審議会会長に就任
- 1954年11月:岸信介とともに自由党より除名処分を受ける 12月:第一次鳩山一郎内閣の通商産業大臣に就任。
- 1956年12月:自由民主党第二代総裁に当選、内閣総理大臣に就任。
- 1957年1月:老人性急性肺炎を患う。2月23日、自民党総裁・総理大臣辞職。
- 1959年9月:中華人民共和国を訪問し、周恩来と会談。
- 1963年9月:日本工業展覧会総裁として中華人民共和国を訪問。
- 1964年9月:ソビエト連邦を訪問。
- 1968年立正大学学長を退任。
- 1973年4月25日 死去。
[編集] エピソード
- 石橋が首相を退陣した時に、その潔さを国民は高く評価したが、一人弁護士の正木ひろしだけは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判した。その後、石橋の全集が作られる事になった時に、東洋経済新報社の編集者が全集に封入するコラムの執筆を依頼したのがその正木であった。かつて石橋の部下であったその編集者は、石橋への賛美一色のコラムを集めたのでは、一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判は、そのまま掲載される事になった。
[編集] 著書
[編集] 評論集
- 松尾尊兌 (編)『石橋湛山評論集』岩波文庫(書籍情報: ISBN 4-003316-81-9)、ワイド版岩波文庫(書籍情報: ISBN 4-000070-05-3)
- 増田弘 (編)『小日本主義-石橋湛山外交論集』草思社(書籍情報: ISBN 4-794201-86-9)
- 『石橋湛山評論選集』東洋経済新報社(書籍情報: ISBN 4-492060-52-9)
- 長幸男 (編)『リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論』東洋経済新報社(書籍情報: ISBN 4-492060-81-2)
- 中村隆英 (編)『エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論』東洋経済新報社(書籍情報: ISBN 4-492060-82-0)
- 鴨武彦 (編)『大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論』東洋経済新報社(書籍情報: ISBN 4-492060-83-9)
- 谷沢永一 (編)『改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論』東洋経済新報社(書籍情報: ISBN 4-492060-84-7)
- 石橋湛山全集編纂委員会(編)『石橋湛山全集』(全15巻)東洋経済新報社
[編集] 回想録・日記
- 『湛山座談』岩波書店同時代ライブラリー(書籍情報: ISBN 4-002601-73-0)
- 『湛山回想』岩波文庫(書籍情報: ISBN 4-003316-82-7)
- 『石橋湛山―湛山回想 人間の記録 (47)』日本図書センター(書籍情報: ISBN 4-820542-90-7)
- 『石橋湛山日記』みすず書房(書籍情報: ISBN 4-622036-76-2)
- 『石橋湛山日記-昭和20-31年 (上)』みすず書房(書籍情報: ISBN 4-622036-77-0)
- 『石橋湛山日記-昭和20-31年(下)』みすず書房(書籍情報: ISBN 4-622036-78-9)
[編集] 栄典
[編集] 家族 親族
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 財団法人石橋湛山記念財団
- 石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞
- 石橋湛山賞 (東洋経済WebSite内)
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