吉本亮 (捕手)
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吉本 亮(よしもと りょう、1969年11月22日~ )は平成期(1990年代~2000年代初頭)のプロ野球選手(捕手、右投げ右打ち)であり、現在は社会人野球ホンダ鈴鹿のコーチを務めている。
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[編集] 来歴・人物
和歌山県出身。御坊商工高卒業後の1988年に王子製紙春日井(現・王子製紙)に入部。1992年の都市対抗野球で2本塁打を放ちスカウトの注目を集める。同年のドラフトで広島の4位指名を受けて入団。背番号は40。この背番号はこの年限りで引退した達川光男の着けていたものであり、球団の期待の大きさがうかがえる。しかし、控え捕手のレベルには達してもスタメンマスクを奪い取るまでには至らなかった。
1996年6月に入来智とのトレードで近鉄に移籍。背番号は入来が付けていた41(ちなみに移籍後の入来もそのまま吉本の40番を引き継いだ。捕手以外の40番は高橋慶彦以来で、現在のところ最後)。ところが、近鉄でほとんど出場することもなく、そのオフどういうわけか広島と近鉄の間で吉本-入来の再トレードが行なわれ、吉本は広島に復帰。背番号も元の40。それでもやはり2番手、3番手捕手の域を脱しきれず1997年シーズンオフに広島を自由契約になる。
1997年オフに、他の球団での活躍の場を求めて他球団の入団テストを受け、阪神に入団。背番号はかつてランディ・バースが着けていた44であり、実績を残していない移籍選手にこの番号を与えることにつき、阪神ファンの間でも議論が起こった。実際阪神に入団した後も、吉本は甲子園と鳴尾浜の往復の生活となる。2002年、背番号を55に変更し、大きな転機を迎える。
その年、正捕手の矢野輝弘が負傷して戦線離脱し、吉本に白羽の矢が立ち、過去最高の31試合に出場するも、その間のチーム成績は芳しくなく、結局矢野の復帰により再びスタメンマスクを奪われる形となり、さらに帰り途中の車の交通事故に遭い、自身が怪我をする。しかし、ファンからは「負傷した矢野の代役をよく果たした」等の評価を受ける。翌2003年は若手の浅井良、日本ハムから移籍した野口寿浩の一軍入りで、一軍には上がれずその年のオフに阪神から戦力外通告を受ける。2003年は、18年ぶりにリーグ優勝したにもかかわらず、星野監督が、吉本を1軍に上げなかったのも吉本自身の体力的な衰えを見抜いていたからであろう。
現役にこだわった吉本はトライアウトに挑戦したところ、プロ球団からは色よい返事が得られなかった。しかし、社会人野球のホンダ鈴鹿から「コーチ兼任で入団してほしい」とオファーがあり、吉本は入団を決意し、プロ野球選手としては現役を引退し、プロ球界を去る。ホンダ鈴鹿での新たな背番号は28。コーチ兼任捕手として2004年のシーズンを過ごし、チームの若返り方針もあって2005年からはコーチとしてチームを支える(背番号55)。ホンダ鈴鹿は若手からベテランまで多彩な投手がいるだけに、大黒柱となる捕手の育成が吉本に与えられた課題となっている。2006年は再び選手登録をされ、コーチ兼任となる。 2006年度の大学社会人ドラフトにて自由獲得枠で広島に指名された宮崎充登選手は吉本コーチが下半身は横回転の動きなのに上半身は縦の動きになっているのでもう少しサイド気味になげてはどうかと言ったところ オーバースローからスリークウォーターに変身し、制球力とスピードが上がりドラフト指名に繋がっている。2007年シーズンは再びコーチ専任に戻り、バッテリーの充実に心血を注ぐ。
なお、現在福岡ソフトバンクホークスに同姓同名の選手がいるが、血縁関係などはなく、全くの別人である。
[編集] 球歴
- 御坊商工高(1985年~1987年)
- 王子製紙春日井(1988年~1992年)
- 広島東洋カープ(1993年~1996年)
- 近鉄バファローズ(1996年)
- 広島東洋カープ(1997年)
- 阪神タイガース(1998年~2003年)
- ホンダ鈴鹿(2004年~ )※2004年はコーチ兼任、2005年はコーチ専任、2006年はコーチ兼任、2007年はコーチ専任
[編集] プロでの通算成績
- 在籍11年、実働8年
- 試合 100
- 打数 164
- 得点 12
- 安打 32
- 本塁打 4
- 打点 15
- 盗塁 1
- 四死球 18
- 三振 60
- 打率 .195