垣原賢人
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垣原賢人 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 垣原賢人 |
本名 | 垣原賢人 |
ニックネーム | 熱風児 風林火山 稲妻伝承 カッキー |
身長 | 180cm |
体重 | 95kg |
誕生日 | 1972年4月29日 |
出身地 | 愛媛県新居浜市 |
スポーツ歴 | 陸上競技 |
トレーナー | 藤原喜明 高田延彦 |
デビュー | 1990年8月13日 |
引退 | 2006年5月28日 |
垣原 賢人(かきはら まさひと、1972年4月29日 - )は、日本の元男子プロレスラーである。愛媛県新居浜市出身。通称「カッキー」。最終所属は新日本プロレス。
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[編集] 経歴
1989年に新生UWFのオーディションに合格。同期には長井弘和(現・長井満也)、富宅祐輔がいる。1990年8月、横浜アリーナ大会にて富宅祐輔戦にてデビュー、団体分裂後は高田延彦率いるUWFインターナショナル(以下「Uインター」)に所属。旗揚げの田村潔司戦ではいきなり骨折により長期欠場に追い込まれる。
体が小さかったため目立った成績が上げられずにいたが、志を同じくする田村潔司との対戦は非常に注目された。そしてUインターと新日本プロレスの対抗戦が始まると、その初戦で佐々木健介を破り、第一線に躍り出る。
Uインター崩壊後は後継団体のキングダムに参加し、旗揚げ戦はメインを飾るも、同団体が格闘技色を濃厚にしてゆくにつれて後輩の桜庭和志や金原弘光らの台頭に影が薄くなり、山本健一(現・山本喧一)戦では18秒で敗退。解散後は他の選手たちのようにPRIDEやリングスなど格闘技団体ではなく全日本プロレスに参戦、Uインター時代の同僚高山善廣、ゲーリー・オブライトと第2次TOPとして活動した後、三沢光晴率いるアンタッチャブルの一員となって活躍する。
2000年の全日本プロレス分裂騒動で三沢らと共にプロレスリング・ノアに移籍するがフロントに不信感を募らせ、旗揚げ戦で何故かオープンフィンガーグローブを装着し大森隆男を一方的に叩きのめしてそのまま退団、古巣の全日本にフリーとして復帰する。全日本と新日本プロレスとの対抗戦にも参戦するようになり、そのまま新日本に鞍替えし、2002年に新日本に正式入団。2003年にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで優勝を果たすが、その後はケガの繰り返しで存在感を表すには到っていない。 2006年4月19日に頚椎椎間板ヘルニアに起因する第4、第5頚椎損傷により現役引退を発表し、5月28日の後楽園ホール大会における対金本浩二戦で引退した。第1試合として5分1本勝負で行われ、試合後の引退セレモニーにはUインターの主だったメンバーも参加した。 引退後は、クワガタと森を愛するネイチャーボーイ、ミヤマ☆仮面として、クワガタによる「クワレス」をプロデュースしていくようだ。
たった1試合で退団したノアを除いたすべての所属団体が崩壊や分裂、経営不振などといったよからぬ事態に陥るというジンクスがある。
入場テーマ:UWFプロレスメインテーマ、レガリテート(尾崎豊)
[編集] 得意技
- カッキーカッター
- 小川直也のSTOに酷似しているが大きく振りかぶるように相手の足を刈るのが特徴。コブラクラッチの態勢から入る改良型(トルネード・カッキーカッター/CKカッター)も存在する。
- 稲妻レッグ・ラリアート
- 同郷の木村健悟から稲妻ニーパッドを譲り受け後継者に指名されている。
- マシンガン掌底
- 垣原の代名詞と言ってもいい技。その腕のスピードはまさにマシンガン。
- ローリング掌底
- 全日本でアンタッチャブル在籍時、三沢のローリングエルボーを掌底に応用して考案した。放つ前に手首を掴み力を入れることもある。
- ランニング掌底
- 走りこんで決める掌底。
- グラウンド・ヘッドロック
- グラウンド・ネックロック
- 新日本参戦以降で使用しだした。
[編集] その他
- Uインター時代の後輩である高山善廣からは高山の方が年長だが「垣原さん」と呼ばれ、「高山」と呼び捨てる。しかし、同じく年長だがキャリアでは後輩になる永田裕志らを何故か「さん」付けで呼ぶ。高山はU時代からの直属の後輩であることが理由であろう。
- ライバルはUWF時代の先輩の田村潔司と同期でデビュー戦の対戦相手である冨宅飛駈。三者ともUWFに対して思い入れの強いレスラーで、他団体移籍後も垣原はUWFの3文字が刻まれたレガースを着用している。2004年には田村が主催するU-STYLEで顔を合わせているが遂に対戦することはなかった。
- 趣味は昆虫(特にクワガタ)採集で、アウトドア系の雑誌にも登場した事がある。また、2004年11月のジャングルファイトで訪れたブラジルや、2005年9月の第1回国際武道大会で訪れた北朝鮮の密林を探索しようとしたこともある。(何れも諸事情で断念。)
- ノア退団の際、三沢は「旅に出す」という、復帰もありうるようなコメントを出している。しかし、その後新日本とノアの間で争われたジュニアヘビー級レスラーの対抗戦に、垣原は一切絡まなかった。また高山善廣がノアとの関係を持続したまま新日本で活躍した頃、「僕は高山の弱点を知っている」と高山と絡む意思があると受け取れるコメントを出したにもかかわらず、一切後が続かなかった。これらを考え合わせると、事実上垣原はノアから「出入り禁止」とされている可能性が高いとも思われたが、引退興行には三沢や浅子覚らノア勢からも花が届けられた。引退直前のインタビューにおいて、垣原は「試合後、大森から『あぁいうのはボクは出来ない』と言われ、自信を無くした。小橋さんらが真剣に相談に乗ってくれてありがたかったが、本当はこの世界を辞める気でいた」と語っている。