多鯰ヶ池
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多鯰ヶ池(種ヶ池、多祢ヶ池 たねがいけ)は鳥取県鳥取市にある池。鳥取砂丘の背後に位置し、森に囲まれて透明度の高い美しい水をたたえ、鳥取砂丘の起伏の大きな雄大な景色と好対照をなしている。
池の周囲3.4㎞、池の面積24.8ha、最深部の深さは15.1mで、中国地方最深の池である。透明度も3~4mある。山地に面した南側は湾入部の多い複雑な地形だが、砂丘に面した北側は直線で、砂丘から急斜面で最深部に達している。夏季の灌漑用水路として利用されている湯山用水以外に流入河川も流出河川もない。池の周辺には多くの遺跡があり、古くから砂丘の休止期に先人が生活していたことが分かっている。
多くの湖沼と同様に蛇伝説がある。
[編集] 成因
新生代第4紀更新世にあたる約10万年前頃に、背後の丘陵前面の浸食谷に古砂丘が発達、その上を約5万年前の大山火山の活動で噴出した大山倉吉軽石が覆って、水が浸透しなくなったことが成因とされている。海跡湖かせき止め湖かで論議されたが、現在では山陰最古のせき止め湖ということになっている。
[編集] 新田開発の歴史
池の東の峠を越した浜湯山には、安政年間まで湯山池という潟湖があった。その頃は砂丘の砂の移動が激しく、浜湯山の人々は飛砂に苦しめられた。庄屋の宿院義般は農民の窮状を救うため、植林をして飛砂を止めるとともに、湯山池を干拓して新田を作ることにした。湯山池の水位より多鯰ヶ池の水位が16mも高かったため、トンネルを掘りその水流に砂を流して湯山池を干拓した。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに1.8m、全長382mという設計だった。工事は1859年(安政6年)に始められ、1862年(文久2年)に一応の完成を見ている。明治維新後も事業は継続され、1871年(明治4年)には池全体50㌶が埋め立てられた。トンネルは今も夏場の灌漑用水路として機能している。
[編集] 生物相
流入河川も流出河川もない閉鎖水域であり、さらに鳥取県下では珍しい貧栄養湖のため、特殊な動物相を有し、貴重な生態系をみせていた。しかし、1980年代には他の湖沼と同様にブラックバスが侵入し、貴重な生態系は破壊されてしまった。