大三島
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大三島 | |
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座標 | |
面積 | 64.54km² |
海岸線長 | 88.8km |
最高標高 | 437m |
所在海域 | 瀬戸内海 |
所属国・地域 | 日本(愛媛県) |
大三島(おおみしま) は芸予諸島の中の一つの有人島で、愛媛県の最北に位置する愛媛県の島の中では最大の島。大山祗神社がある「神の島」として知られている。
目次 |
[編集] 自然
- 愛媛県に属する面積64.54km²(国土地理院のデータによる)の島。
- 気候 温暖寡雨
- 山 鷲ヶ頭山(わしがとうさん)437m
- 川 河川はいずれも小規模である。水資源に恵まれないことから、島しょ部としては珍しく台(うてな)川にダム(台(うてな)ダム)が整備され、大三島だけでなく、隣の伯方島(はかたじま)及び大島に瀬戸内しまなみ海道の架橋に併設された導水管を通じて給水されている。
[編集] 歴史
[編集] 行政
[編集] 経済
[編集] 産業
みかんを中心とした農業が主たる産業である。オレンジ自由化等により、不振となり、近年ではいちご等の栽培も小規模ながら行われている。瀬戸内の島しょであることから、元々、平地が乏しく、また水資源にも恵まれず、米作は盛んではない。 小規模ながら造船所、船体ブロック工場、縫製工場などがある。 「伯方の塩」のブランド名で知られる伯方塩業(本社・松山市)の製塩工場が近年立地している。なお、戦中までは石油備蓄基地があった。
[編集] 商業
大山祇神社の参道である宮浦商店街があるものの、しまなみ海道の開通などもあり、参拝客の中心が宮浦港を利用する船客から自動車で来訪する客へとシフトしたのにともない、沈滞している。島内の過疎化もこれに拍車をかけている。
[編集] 観光
大山祇神社のある宮浦地区が島の観光の中心となっている。付近には、旅館や土産物店、飲食店も数軒ずつ立地し、芸予諸島の中では生口島・瀬戸田と並ぶ一大観光拠点となっている。 瀬戸内しまなみ海道の開通とともに、島の東部にインターチェンジができたことから、インターチェンジのある多々羅(たたら)地区に、多々羅しまなみ公園、芸術会館、多々羅温泉、しまなみドームなどの観光関連施設が旧・上浦町により整備されている。
リゾート開発構想が華やかなりし頃は、「えひめ瀬戸内リゾート開発構想」の一つの重点整備地区としてとして大手企業によるリゾート開発構想も打ち上げられたが、バブル崩壊とともに、用地取得、開発着手の前に大手企業は事実上開発構想を断念、撤退し、地道な取組みに戻った。
1999年5月の瀬戸内しまなみ海道の開通は大三島にとっても最大の飛躍のチャンスであった。開通後多くの観光客が訪れ、入込客数はピークを記録した。特に、しまなみ海道沿線では瀬戸田(生口島)とともに知名度の高い大山祇神社周辺には観光バスやマイカーでごったがえした。しかしながら、観光ブームは秋の行楽シーズンの終わりとともに終息し、開通前の状態に戻ってしまった。しかしながら、ブームに過度に踊らされず、民間企業ベースでは架橋による観光ブームをあてこんだ過大な投資は行われなかったため、傷も浅くすんだ。むしろ、国策であった農業補助金等を活用した地域振興の流れにそって、小規模な自治体が競って同様なコンセプト、施設内容の物産販売施設等を整備したため、その後処理がかえって重荷となっている。
今日では、地域資源を生かした、グリーンツーリズムや修学旅行客誘致、スポーツ合宿誘致などの地道な観光振興が行われている。
[編集] 文化
[編集] 水軍にちなむ伝説・遺跡
- 鶴姫伝説
- 甘崎城跡
- 大三島の東岸の沖合いにある、水軍の出城跡。天智天皇の頃、唐の侵攻に備えて造られた日本最古の水軍城と伝えられる。近世には、藤堂高虎の弟が居留したといわれている。居館のものとみられる柱跡が見られる。戦後すぐの頃までは周辺ではアサリがたくさん採れ、今日でも干潮時には大三島から砂州を伝って歩いていくことができる。
[編集] いも地蔵
いも伝説は愛媛県大三島に伝わる物語である。
江戸期、この地は干害に悩まされ、飢饉に見舞われることもたびたびであり、安定して収穫できる食用作物が求められていた。河野氏の出で、同氏の没落後大三島に帰農していた下見吉十郎(あさみきちじゅうろう)は、九州の薩摩の伊集院村を旅していたところ、甘藷(さつまいも)に出合い、これこそが島民を飢えから解放する作物だと確信した。しかしながら、当時、薩摩からいもを持ち出すことは藩により固く禁じられていた。しかしながら、この禁をおかして、種芋を持ち帰り島に広めた。自筆の記録もあり、薩摩から持ち帰ったルートもわかっている。
これにより、島民は飢饉を防ぐことができ、生活は安定したと伝えられている。大三島は松山藩領であったが、藩で3000人以上、西日本で多数の餓死者を出した享保の大飢饉の時も大三島ではほとんど餓死者を出さず、かえって松山藩主に米を献上したとの記録が残っている。
感謝した島民は、下見吉十郎を追慕し、大三島の瀬戸村向雲寺に「いも地蔵」(甘藷地蔵)としてまつっている。今治市上浦町の瀬戸地区にある。なお、向雲寺のほか、島内の明光寺、宝珠寺、永久庵に、いも地蔵があるが、近隣では伯方島や因島にもみられる。
また、伝説をモチーフにした和菓子も土産品用に作られている。
[編集] 交通
[編集] 道路
- 西瀬戸自動車道(通称:しまなみ海道)
- 本州四国連絡道路の1つである、西瀬戸自動車道が通る。大三島橋で伯方島と、多々羅大橋で生口島と結ばれている。(平成18年4月24日に大島道路が、同年4月29日に生口島道路がそれぞれ暫定開通し、両島内は一般道を経由する必要がなくなった。)
- 愛媛県道21号大三島上浦線(島の中央を東西に横断する道路)
- 愛媛県道51号大三島環状線(島を一周する道路)
[編集] バス
- しまなみ海道の開通とともに、大三島BSから福山、今治方面へのバスが運行されている。また、宮浦からは今治行きのバスも運行されている。
- 島内の路線は瀬戸内運輸と地元自治体の出資による瀬戸内海交通が運行しており、車体カラーなどは瀬戸内運輸と似通ったデザインである。便数は多くない。
[編集] 海上交通
- 宮浦港(みやうらこう) 今治(いまばり)~宗方(むなかた)~木江(きのえ、広島県)~宮浦航路
- 宗方港(むなかたこう) 同上
- 井口港(いのくちこう) 三原(みはら、広島県)~瀬戸田(せとだ、広島県)~ 井口航路
- 大三島の東岸にある井ノ口港は、古くから漁業と海運業を中心とした海上交通基地、荒天時における漁船・貨物船舶等の一時避難港の役割を担ってきた。1999年の瀬戸内しまなみ海道の開通までは、対岸の垂水港(生口島、広島県瀬戸田町)と結ぶフェリー便や盛港(大三島の北端)を経由して忠海港(ただのうみ-、広島県竹原市)への航路があったが、しまなみ海道の開通により廃止された。かつてフェリー航路があった関係で、井ノ口港には待合所のほか、フェリー乗船車用の待機レーンがあり、かつての名残りを止めている。
- しまなみ海道をはさんで南側に多々羅しまなみ公園(特産品販売施設・飲食店を含む)が整備され、また北側には運動公園も整備され、観光クルーズ船や遊漁船の運航等の観光・レクリエーション拠点施設としての役割も帯びつつある。
- ただ、島には大きな産業もなく、物流港湾としての利用は減少、設備も老朽化し、船舶大型化への対応は遅れており、寂れた印象を受ける。
- なお、港のある地区は「井口」(いのくち)であるが、正式な港湾の名前としては「井ノ口港」と「ノ」が間に入る。ただ、土木行政関係者以外は、地元では一般に「井口港」と呼び、表記される(港の看板もそうなっている)。
- 盛港(さかりこう) 盛(さかり)~忠海(ただのうみ、広島県)。一部、大久野島(おおくのじま)寄港。
- この航路は愛媛県島しょ部から本州への最短ルート。
[編集] 名所・名産
- 名所
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- 台海岸は、ドラマ「がんばっていきまっしょい」のロケが行われ、作品中の松山第一高校の艇庫があった。大三島ふるさと憩いの家は、木村佳乃主演で「船を下りたら彼女の島」という映画のメインロケ地で、劇中では民宿・波の穂として登場した。