大浦みずき
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大浦 みずき(おおうら みずき、1956年8月29日 - )は元宝塚歌劇団花組トップスターで、女優。本名は阪田なつめ(さかた・なつめ)。
東京都中野区出身、出身校中野区立第八中学校、愛称なつめ、ナーちゃん。公称身長168センチ、血液型A型。
[編集] 略歴
小説家阪田寛夫の次女として出生。家族は他に母と姉がひとり。幼少よりバレエを習っていたうえ背が伸びすぎてしまったことや、大の宝塚ファンだった父の影響から中学卒業を機に宝塚音楽学校受験、合格。
1974年、60期生として宝塚歌劇団に入団、『虞美人』で初舞台。芸名は父と文芸活動およびキリスト教信仰の同志であった庄野潤三が命名。同期には元月組トップ男役の剣幸、元雪組トップ娘役の遥くらら、専科に所属している磯野千尋(元花組組長)がいる。
雪組~星組を経て花組へ。ダンスの名手として鳴らし、磯野や朝香じゅん、安寿ミラ、真矢みきらと共に当時の花組男役トップ高汐巴を盛り立てた。
しかし高汐トップ後期の1987年には膝の半月板損傷・手術により一年近い長期休演を余儀なくされた。多くのファンが心配したが、5キロの砂袋をつけて足を上げ下げするなどの懸命のリハビリで故障克服、怪我以前よりダンスを磨き舞台復帰。
1988年~1991年まで、ひびき美都を相手役に花組男役トップスターを務める。演出家小池修一郎いわく、『(当時の)宝塚でもっともプロ意識の高いスター』で、特にトップについてからはダンスだけでなく歌唱・演技も充実させ「ダンスの花組」と呼ばれる一時代を築いた。大浦・ひびきのダンスは当時の宝塚の呼び物の一つであった。宝塚時代の代表作は『キス・ミー・ケイト』('88年トップ就任作)、『会議は踊る』('89年)、『ベルサイユのばら』('90年,フェルゼン役)、『ヴェネチアの紋章』('91年サヨナラ公演作)。
この間平成元年には歌劇団のニューヨーク公演でメインを張った。
退団後も舞台を中心に女優(主に脇役や男性主役の相手役)として活躍。また退団後の平成4年の歌劇団ニューヨーク公演では歌劇団海外公演で初の"メインが(現役生徒でなく)歌劇団卒業生"という異例の大役を任ぜられたが、 現役時代と遜色ないステージをこなし好評をえた。歌劇団退団・芸能界転向をはさみ私生活では独身を通す。
[編集] 逸話
- 大浦には宝塚音楽学校入試直前に受けた健康診断で過激な運動はさけるべきとの所見がくだったほどの心臓疾患があったという。「もし合格しても舞台の激務に耐えられないだろうから入団はあきらめろ」との多方面からの説得を振り切り大浦は合格・入団。宝塚在団中、ことに膝の大怪我以降は体のケアには人一倍気を使い、病気のことは退団が決まるまで誰にも口外しなかったので、事実をしった者たちは皆驚いたとか。
- 花組トップ時代、舞台の質もさることながら面倒見がよく下級生に非常に慕われていた。当時の下級生で後にトップとなった多くの生徒が、大浦時代について語っている。例えば香寿たつきは「(大浦に)タオルを差し出す役の際、毎回違うタオルを渡した」と話し、真琴つばさは「自分の進退について大浦らが劇団上層部に掛け合ったらしい」と人づてに聞いたとディナーショーで明かしていた。当時の花組組子のほとんどはもちろんニューヨーク公演で共演した湖月わたるらも大浦を大いに尊敬していたといわれる。
- 暗転でオケボックスに落ちた際、片足だけが舞台に残った。しかし、そのまま舞台へ上がり袖へひっこみ、何事もなかったかのようだったという。これは大浦の足の長さと脚力に関して印象的なエピソードである。
- 2006年10月に父・阪田寛夫の通った大阪市阿倍野区の幼稚園で童謡『サッちゃん』の歌碑建立イベントが開かれたがこの席に2005年逝去した阪田に代わり大浦が招かれイベントを盛り上げた。
[編集] 著書
- 『夢・宝塚』
- 『なつめでごじゃいます!』