天満
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- 「天満天神」など、天神をさす言葉。⇒菅原道真・天神信仰も参照。
- 大阪府大阪市の地名。本項目内で記述。
- 大阪府大阪市の地名「天満橋」の略称。上述の広域地名に反する誤称。
- 日本人の姓・名の一(姓…天満国男、名…塚本天満(漫画の主人公)など)。⇒人名一覧 ても参照。
天満(てんま)とは、大阪市北区の地名のひとつ。淀川の支流である大川が曲流する一帯の北西側にある地域を指す。天満の名は、大阪天満宮があることにちなむ。日本三大祭の一つ、天神祭はこの天満宮周辺と天満の南の大川が舞台となる。
北部にあるJR西日本の大阪環状線には天満駅が存在する。南部には天満橋・天神橋・難波橋など大川にかかる橋が並び、中央区に接する。天満橋と天満駅の周辺は繁華街となっている。
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[編集] 歴史
低湿地だった天満周辺に人家が立ち並ぶのは、豊臣秀吉による大坂城築城と城下町整備にはじまる。1598年に天満堀川が開削され周囲に堺や平野郷からの商人が誘致され、寺を集約した寺町(一時期本願寺がこの地に仮の本堂を置いた)が天満地区の北側にでき、合わせて大坂の北側の防御線となった。
大坂夏の陣以降、江戸幕府は大坂の復興に努め、天満は商業の街として拡充することになった。当初の大坂は大坂町奉行支配のもと、北組と南組とに分かれていたが、郊外だった天満に船場に匹敵する商業と人口の集積が見られるようになったことから、1652年(承応元年)頃、北組から淀川以北の天満組が分離し、以後大坂は「大坂三郷」と呼ばれるようになった。1653年(承応2年)、天満の淀川沿岸に京橋から青物市場が移転し「天満青物市場」が誕生した。この市場は難波など近郊農村が開設しようとした市場や新興の堀江にできた市場などから挑戦を受けるものの、長年大坂の青果取引を独占する官許市場として繁栄し、周囲には野菜などに関わる商家が多く集まった。天満堀川沿いは造り酒屋や乾物問屋などが軒を連ねた。また西隣の堂島周辺の河川再開発を機に堂島新地・曾根崎新地などの歓楽街が誕生した。
江戸時代後期には商家に対する打ちこわしが頻発し、さらに大塩平八郎の乱が勃発すると天満組は全焼する被害を受ける。
明治に入り、天満組は1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって大阪を四分割した内の一つ、北区と呼ばれるようになり、1888年(明治21年)に大阪市が誕生すると北区の一部となった。また造幣局の本局所在地となり、関連して中小の金属工場やガラス工場、紡績工場などが誕生するなどの波及効果をもたらした。また大阪天満宮周辺は劇場や寄席が並ぶ繁華街となり、商人や職人でにぎわった。
以後1909年(明治42年)のキタの大火、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で天満のほとんどが炎上する被害を出すが、そのつど復興されている。
ただし、天満青物市場が大阪中央卸売市場に集約されたこと、大空襲で町の大半が燃えたこと、戦後の経済情勢の変化やオフィス化、地上げが起こったことなどにより、劇場街も消え、焼け残った町家も取り壊され、商家が立ち並んだ時代の空気は薄れてきた。現在では、埋め立てにより道路となった天満堀川を境に、旧町名は集約されてしまい東天満と西天満に分かれる。
[編集] 現況
2000年代現在では、小規模なオフィスや工場が多数あるほか、大阪地方裁判所・大阪高等裁判所があることから弁護士事務所など法曹関係者の集積も見られる。日本一長い商店街と称される天神橋筋商店街も有名である。
大規模なオフィスが梅田周辺に集中する中、天満はオフィス開発が進まない代わりに都心回帰に伴う超高層マンションが立ち並ぶようになり人口が回復してきた。平成不況や新住民の移入やなどを機に、天満の歴史を見直す動きも広まっている。残っている町家の価値が見直されいくつかはカフェやレストランとなっている。また天満宮周辺に上方落語の寄席を再建する動きが出て、2006年には戦後初の上方落語の定席「天満天神繁昌亭」が開設された。
[編集] 関連項目
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