安本美典
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安本美典(やすもと びてん、 1934年 - )は、満州生まれの文章心理学者・古代史研究家。帰国後は岡山県高梁市で育つ。京都大学文学部(心理学)卒。旧労働省退官後、日本リサーチセンターに入社、産業能率短期大学助教授を経て、産能大学教授(2004年3月退官)。文学博士。心理学・文章心理学専攻。
「邪馬台国=甘木・朝倉説」を30数年来主張し続けている。「邪馬台国の会」主宰。季刊「邪馬台国」編集責任者。古代史研究は数理文献学(Mathematical Philology)の手法に基づくとする。
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[編集] 邪馬台国に関する主張
現代の「邪馬台国東遷説」の第一人者で、邪馬台国や古代史問題について次のような主張を展開している。
- 日本神話は実際の歴史上の出来事が伝承として伝わったものである。
- 記紀では高天原は九州にあったとされるため邪馬台国は九州である。
- 神武天皇の東征などは基本的に事実を基にしているはずである。
- 欠史八代の天皇は実在する。
- 実在しないとする証拠はない。ならば、記紀に書いてあるとおり実在したと考えるのが道理である。
- 平均10年の在位で計算すると欠史八代の天皇の前が神話の時代に相当し、卑弥呼の時代が天照大神に相当する。
- 数理文献学的分析によると古代の王の在位の平均は約10年である。記紀では欠史八代を直系相続としているが、実際は兄弟相続だった可能性もあり不自然ではないとする。
これらの主張から次の結論を導き出している。
卑弥呼と天照大神は同視できる。『魏志倭人伝』のなかの地名との類似から邪馬台国九州説が有力である。文献によると邪馬台国には28万人もの人がいたとあり、そこから類推し、邪馬台国はいくつかの国の総合名称であり、吉野ヶ里遺跡は女王の支配国の一つであったと考える。つまり、卑弥呼の宮殿は筑後川の上流にあり、流域すべてが邪馬台国ではないかという説(『歴史街道』1989年6月号)である。
以下がその詳細である。
[編集] 年代論
地図に緯度と経度が必要なように古代史の問題を考える時には「年代」を考えることが根本的に必要であるとして、独自の年代論を展開している。すなわち、年代論の先駆者とも言える那珂通世は天皇の平均在位年数を約30年としているが、安本はその在位年数が歴史的事実として信頼できる用明天皇から大正天皇まで平均で14.18年と考える。またこれを4世紀ごとに区分して考えた場合、時代をさかのぼるにつれて在位年数が短くなる傾向にあり5世紀~8世紀では10.88年となる。西洋の王や中国の王の平均在位年数についてもほぼ同様の数字と傾向のため、1世紀~4世紀については天皇の平均在位年数は9年~10年程度であろうとする。[1]
[編集] 古代天皇実在説
いわゆる欠史八代については実在説をとる。井上光貞をはじめとする非実在説派はその根拠として次のような点をあげている。
- 記紀には系譜の記述、すなわち帝紀的部分のみがあって、事跡の記述、すなわち旧辞的部分がない。
- 名前が後世的であり、後から作られた可能性が高い。
- 全て父子継承で不自然である。
これに対しては安本は以下のように非実在説を否定する。
- 欠史八代以外でも記紀に帝紀的部分のみがあって旧辞的部分がない天皇は多く、それだけをもって非実在の根拠とはならない。むしろ植村清二が指摘するように記紀の原型は帝紀でありそれに旧辞が加わってできたものと考えられる。
- 名前が後世的というのはなはだ主観的で古代的といえば古代的といえる名前である。たとえ7~8世紀の天皇の名前と似ていたとしても、それは7~8世紀の天皇の名前の方が古代の天皇の名前にちなんでつけられたと考える方が自然である。
- 全て父子継承であるのは確かに不自然であり、実際は兄弟あるいは甥などが継承したにもかかわらず確かな情報として伝わらなかったため父子として記述されたと考えられる。そもそも、父子継承が信じられるかどうかということと天皇が実在かどうかということは別問題である。
[編集] 神武天皇及び天照大神の年代
以上のことから記紀に記載されている古代天皇の存在およびその順序、すなわち「代の数」は信じられるとする。ただし、父子継承は信じられない。また在位期間も引き伸ばされていると見られるので信じることはできない。
これらの前提で天皇の平均在位年数を用いて神武天皇の活躍の時代を推定すると西暦280年~300年頃となり、畿内を中心として大規模な前方後円墳が作られだした時代とほぼ重なる。さらに記紀では天照大神は神武天皇の5代前となっているから約50年さかのぼれば西暦230年~250年頃となり、まさに邪馬台国と卑弥呼の時代に重なる。[2]
[編集] 卑弥呼=天照大神説
上述のように卑弥呼と天照大神は年代が重なること、また、二人とも女性であり神に仕える立場で宗教的な権威を持ち国を治めたこと、夫を持っていなかったこと、弟がいたこと、など共通点が多く見られることから二人は同一人物であるとする。また天照大神が天の岩戸に隠れると世界は闇に包まれ天照大神が岩戸から出てくると世界に光が戻ったが、天照大神は岩戸隠れの前と後で性格が変わっていることから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したものだとし、卑弥呼の没後倭国は混乱したが台与の登場により平和が戻ったという記事と同じ出来事を伝えるものだとする。
この説は安本の独創ではなく彼は和辻哲郎がすでに大正時代にこの考え方を表していると述べている。この説をとる研究者は多く、諸説ある卑弥呼が誰であるかという説の中では神功皇后説、倭迹迹日百襲姫説などと並んで代表的な説の一つとなっている。(「邪馬台国比定地一覧」には邪馬台国の比定地とその場合卑弥呼が誰であるとするかということが一覧にまとめられている)
なお、安本はこの説をとった場合、台与は天照大神の息子天忍穂耳命の嫁である万幡豊秋津師比売に比定できるとしている。(台与#人物の比定についての議論を参照)
[編集] 邪馬台国=高天原説
卑弥呼が天照大神であるという仮説からは派生的に次の「系」が導かれる。すなわち、卑弥呼が統治していた邪馬台国と天照大神が統治していた高天原は同一のものである。したがって、高天原がどこかということは邪馬台国がどこかということと同じである。
戦後、日本神話作為説が有力になったために現在ではほとんど忘れられているが戦前には高天原論争というものがあった。日本神話で伝えられる高天原は本居宣長がいうような天上にあったものでも、山片蟠桃がいうように作為的なものでもなく(安本は現在の日本神話作為説の元となっている津田左右吉の説は山片蟠桃の説の焼き直しだとしている)、新井白石がいうように大和朝廷の中心となった勢力の祖先が遠い昔にいた場所のことを伝承的に伝えたものではないか、したがって高天原とは地上のどこかをさすのではないか、という論争である。この高天原論争では有力な説としては邪馬台国論争と同じく「九州説」と「畿内説」があった。(なお、高天原地上説には海外説もあり、戦後でも江上波夫は騎馬民族征服王朝説で高天原は南朝鮮であるとしている)安本は古事記に出てくる地名を分析しても、また考古学的な玉・鏡・剣の出土状況をみても、また古事記には高天原から葦原中国(出雲)へ海路で行ったと記されていることを見ても、高天原は九州である可能性が高いとしている。
[編集] 邪馬台国=甘木・朝倉説
では邪馬台国=高天原は九州のどこと考えられるか。安本は以下のような理由からそれを福岡県の甘木・朝倉地方(現在の朝倉市一帯)であるとしている。
- 朝倉地方には「甘木」をはじめとして「天」に関係する地名が多く見られる、安川(夜須川)がある、香山(かぐやま)がある、岩屋・岩戸があるなど日本神話に現れる地名が集中的に残っている。
- 朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。[3]これはアメリカなどイギリスからの移民が行なわれた国々にイギリスと同じ地名があるのと同じで、この地にあった勢力が畿内に移る時に地名も一緒に移ったものと考えられる。これは後述の邪馬台国東遷説につながる考えであるが、この考え方も安本の独創ではなく鏡味完二が指摘しているものであり、また折口信夫も日本の地名に同じものが多いのは偶然ではなく民団の移動とともに地名も持ち運ばれたからであるとする説を述べているとしている。
- 朝倉地方には考古学的な遺跡が多く、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に匹敵するかそれ以上ともいわれる平塚川添遺跡も発掘されている。安本は邪馬台国の政治の中心地は朝倉地方にあったが国としては筑紫平野一帯に広がった諸国の連合で吉野ヶ里遺跡もそれに含まれるとみている。(実際吉野ヶ里と朝倉地方とは20有余kmの距離しかなく共に筑後川の北岸で途中はまったくの平野であり地勢的には同一である。)
- 朝倉地方は古来より村落が多い地帯であり、朝倉街道という地名が残っているように九州の交通の要所であった。(現在の朝倉地方には大分自動車道が通っており、甘木インターチェンジから東へ行けば大分方面へ抜ける。また西へ行けば九州を南北に走る九州自動車道と交わる鳥栖ジャンクションが近く、それを越えて長崎自動車道に入った最初のインターチェンジが吉野ヶ里遺跡に近い東脊振インターチェンジである。大宰府も近い。)
ちなみに、星野之宣は漫画『ヤマタイカ』の主人公達が甘木を訪れるシーンで、2.の地名及びその位置関係の酷似を紹介し主人公の一人に「邪馬台国が甘木にあった状況証拠だ」と言わせている。
[編集] 問題点
安本の説に対しては、次のような問題点が指摘されている。[要出典]
- いわゆる数理文献学という手法は、文体から作者やその年代を推定するのには使用可能である場合もあるが、安本が用いたような、伝承による王朝の年代を推定する方法としては、その王の歴代数が正しいことが前提となるために、説得力に乏しい。具体的には、安本は天皇の歴代と天照大神以下5代の神統譜の代数と順序・性別が正しいことを前提に、卑弥呼=天照大神などの結論を導いているが、魏志倭人伝による限り、邪馬台国の王位継承は、女王・男王・女王の順でなければならず、記紀にはそのような王位継承は見られないことから、記紀が邪馬台国時代の王位継承を正確に伝えたものではないことは明らかである。実際安本は、台与を誰に比定できるかについて、ある場面では、岩戸から出てきた天照大神にあて、別の場面では天照大神の息子天忍穂耳命の嫁である万幡豊秋津師比売に比定できるなどという見解を表明しているが、そもそも彼は天皇の歴代と天照大神以下5代の継承を正しいとする仮説から出発しているのであるから、このような議論は矛盾でしかない。よって仮説は棄却されるべきであり、正しい結論は「魏志による限り、記紀の伝承は邪馬台国時代の王位継承を正確には伝えない」以外にはありえない。
- 前項の帰結から、記紀の王朝についての伝承からその年代を推計するという手法はそもそも破綻しているが、さらに言えば、天照大神や神武天皇の「活躍年代」をわずか20年程度の幅で推定できるとする議論は、統計学的に見てもナンセンスである。百万歩譲って、安本の手法によって推計したところで、わずか20年の幅に「活躍年代」が入る蓋然性ははなはだ低いからである。安本は自己の手法を数理統計学にもとづく科学的なものと主張しているが、実のところ統計学の推計結果とその含意や限界を必ずしも誠実に表現するつもりはなく、むしろ読者をミスリードするための文章心理学的レトリックとして用いているといわざるをえない。
- 記紀の説話を「大筋において」事実の反映であるという立場に立つが、現在の記紀神話は8世紀の段階で記録されたものに過ぎず、それ以前から「大筋」で現代に伝えられているようなものであった保証はない。例えば、隋書倭国伝には聖徳太子の使者の言葉として「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟となす」云々の説話を伝えており、現行の記紀神話とはかけ離れている上に、太陽女神天照大神はいまだ成立していなかったと推定することさえ可能であろう。こうなると卑弥呼=天照大神説は土台から崩れてしまう。
- 記紀神話を積極的に論拠として用いない戦後の歴史学に対して、「津田史観の呪縛にとらわれている」と批判するが、これは安本の歴史学に対する無理解からきたものであろう。アカデミックな歴史学では、同時代史料あるいは同時代に取られた記録を参照したであろうと推定できる史料に基づき、厳格な史料批判を通じて史実の再構成を行わなければならないということは常識である。なぜならば、歴史学で扱う主題は通常1回性の事実であるので、裁判における事実認定に近い緻密な手法が必要とされるからである。近年の記紀の編年に対する研究から、継体天皇以前に朝廷内で出来事をすぐに文字に記すようなことが行われた可能性はほとんどないと考えられ、継体以前の国内伝承を考古学的資料による明確な証拠もないままに事実の反映とするのは学問的とはいえない。
↑は以下の剽窃?(特に一番目の項目)
「27 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/04(日) 01:21
安本美点の古代史は、結局素人談義以上のものではない。 彼は、アマテラス以来の王統譜が性格であることを仮定して、在位平均10年という計測結果を基にもっともらしいことをいっているが、その統計的手法にも疑念があるが、もっとおかしいのは、この仮定からは、容易に事実と矛盾が発生してしまう点である。 すなわち、倭人伝では、女王、男王、女王という継承がなければならないのに、アマテラス以来の王統譜にはそのような箇所など存在しないからである。 これすなわち、記紀のつたえる歴代は、正確に事実を伝えていないという結論になるはずである。(彼はいろいろ苦しい説明を試みているが、それは単に解釈にすぎず、そのような解釈が必要なら、ほかの歴代部分ももはや正確であるという保証は全くないことになる。) かくて安本の議論は根本から崩壊し、彼の古代史談義は壮大な素人談義、単なる神話の合理的解釈にすぎないことがわかる。 」 安本美典の謎より
ノート参照
[編集] その他
- 東日流外三郡誌について早い時期から偽書であると批判を行っていた。
- 新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。
- 九州王朝説の古田武彦とは相互に激しい批判を行っている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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