小動岬
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小動岬(こゆるぎみさき)は神奈川県鎌倉市腰越2丁目にある岬で、八王子山とも呼ぶ。岬には腰越村の鎮守として信仰を集めた小動神社(当時は八王子社と称す)がある。幕末には台場(八王子山台場)が設置され川越藩・会津藩・長州藩などが沿岸の監視に携わっていた。展望台があり、相模湾を一望の下に置く事ができる。さらに晴れた日は富士山や伊豆半島も望める。
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[編集] 地誌
岬内には小動神社、八王子山台場跡(ただし遺構はほとんど残っていない)がある。かつては「小動」という地名の由来となった「小動の松」が岬の山頂にあったが、明治以降いつのまにか枯れてしまい現在は見る事ができない。
岬の南は相模湾に面し、東は七里ヶ浜、西は腰越と接し、腰越漁港が隣接している。また国道134号線が岬の根元部を横断している。
[編集] 歴史
- 文治年間(1185年~1189年) 佐々木盛綱が八王子宮を勧請し、八王子社(現在の小動神社)を建てる。
- 元弘3年(1333年)5月 新田義貞が八王子社寄進を行い、鎌倉攻めの戦勝を祈願する。
- 江戸中期 小田原藩藩主、大久保忠真が八王子社に扁額を奉納する。
- 明治元年(1873年) 八王子社が小動神社と改名される。
- 昭和5年(1930年)11月 太宰治が3日前に知り合った女性とこの地で睡眠薬を服用し自殺を図るが、本人は助かる。この体験は後年『道化の華』という作品の土台となった。
[編集] 八王子山台場
八王子山台場(設置当初は八王子山遠見番所)は異国船の相模湾渡来を監視・通報する為に天保9年(1838年)~同14年頃に、当地を治めていた烏山藩が設置したと推測されている(鎌倉市史)。この番所は烏山藩の後に管理を引き継いだ川越藩によって大砲が据え付けられ、台場としての機能も持つにいたった。しかし台場となって以降も異国船をうち払うよりは、監視・通報する番所としての性格を強く持っていた。
弘化3年(1846年)8月、八王子山台場の管理は川越藩から彦根藩へと引き継がれ、その後長州藩に管理を移管された。しかし鎖国が終わると、異国船を監視し、それらを打ち払う理由が乏しくなった。このため八王子山台場の重要性はさがり、自然に使われなくなっていったとみられている。
[編集] 参考文献
- 『新編相模国風土記稿』
- 『鎌倉市史近世通史編』(鎌倉市史編さん委員会、1990年) ISBN 4-642-01535-3