小川芋銭
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小川 芋銭(おがわ うせん、本名:小川茂吉、1868年2月18日(慶応4年1月25日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家である。
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[編集] 概説
親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市)に移り農家となる。
最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。
生涯のほとんどを茨城県の牛久沼のほとりで農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。
身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。
また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから『河童の芋銭』として知られている。
また『牛里』の号で俳人としても知られていた。
野口雨情は、芋銭のことは俳人としてのみ知っていて、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。
画号の『芋銭』は、『自分の絵が芋を買う銭(金)になれば』という思いによるという。
[編集] 略歴
- 1868年、江戸の牛久藩邸で生まれる。幼名、不動太郎。
- 1871年、廃藩置県により新治県城中村に移住する。
- 1879年、牛久小学校下等小学校第三級を卒業し上京、小間物屋に奉公する。
- 1880年、桜田小学校尋常科第三級後期を卒業。
- 1881年、本多錦吉郎の画塾、彰技堂に入り洋画を学ぶ。
- 1887年、尾崎行雄の推挙を得て、『朝野新聞』に客員として入社する。
- 1888年、磐梯山噴火の惨状をスケッチし新聞に掲載。
- 1893年、父親の命により牛久に戻り農業に従事する。
- 1896年、渡辺鼓堂の推奨により『茨城日報』(後の茨城新聞)に漫画が採用される。
- 1900年、句会『水月会』に入会。
- 1904年、幸徳秋水らが主催する『平民新聞』に漫画を描き始める。文芸運動の『木星会』の結成に参加。
- 1908年、初の画集『草汁漫画』を刊行。
- 1911年、俳誌「ホトトギス」の表紙画・挿絵を描く。
- 1911年、東京・大阪の三越で漫画展を開く。
- 1915年、川端龍子らと『珊瑚会』設立。
- 1917年、珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められ日本美術院同人に推挙される。
- 1923年、茨城美術展の顧問になる。
- 1935年、帝国美術院参与となる。
- 1938年、牛久の自宅で死去。
[編集] 代表作
- 肉案(1917年珊瑚会展)
- 樹下石人談(1919年院展)
- 水虎とその眷属(1921年クリーブランド美術館主催日本美術院展)
- 若葉に蒸される木精(1921年クリーブランド美術館主催日本美術院展)
- 水魅戯(1923年院展)
- 狐隊行(1930年)
- 海島秋來(1932年院展)
- 聴秋(1936年院展、外務省買上)
[編集] 画集等
[編集] 雲魚亭
芋銭が自宅敷地に建てたアトリエ。
完成してまもなく芋銭が脳溢血で倒れたため、ほとんど芋銭の病室として使われた。
現在は『小川芋銭記念館』(市の施設)として公開され、複製画や芋銭の愛用品が展示されている。 牛久沼のほとりにあり、近くには『河童の碑』もある。
- 所在地:茨城県牛久市城中町2770-1
- 交通:牛久駅から関東鉄道バス三日月橋生涯学習センター行きに乗車、終点下車、徒歩約15分~20分(小川芋銭散策路経由の場合)。
- 公開日:土日祝日(平日は屋外のみ)
- 入場料:無料
- 問い合わせ先:牛久市教育委員会生涯学習課(電話:029-871-2301)