小机城
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小机城遠景 | |
通称 |
飯田城、根古屋城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
上杉氏か |
築城年 |
永享年間か |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 |
不明 |
遺構 |
堀、土塁 |
位置 |
小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった城(平山城)。
目次 |
[編集] 歴史
小机城は永享の乱(1438年~39年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされているが、正確な築城年代は分かっていない。
この城が歴史的に登場したのは、文明10年(1489年)に起きた攻守戦であろう。山内上杉家の家宰であった長尾景春が父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした豊嶋氏がこの城に立てこもり、敵方の太田道灌がこの城の攻撃をした。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞したあと、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2ヶ月をかけて落城させたとされている。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、現存している。
その後、廃城となっていたが、この地域が北条氏の勢力下に入ると、北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置された。笠原氏は小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなどの城下の整備に力を注いだと見られ、徳川時代になっても、その子孫は代々、この地の付近に住んでいた。その後、城主は北条氏政の弟氏秀、氏堯と替わっている。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原の役の際には、豊臣方の調書には小机城の名前がないことから、この時期にはすでに廃城となっていたと考えられる。
その後も城跡は地元の人々に「城山」と呼ばれ、明治25年2月5日、橘樹郡小机村9大字(下菅田・羽沢・三枚橋・小机・鳥山・片倉・神大寺・六角橋・岸根)は「小机」としていた村名をこの城があったことから城があった郷、すなわち「城郷村」と改めることを村議会で決定した。この村名は以後、各集落が昭和2年に横浜市に編入されるまで使われた。
この城郷村内の9大字には小机城の合戦で亡くなった兵士を供養した「九養塚」・「十三塚」や、太田道灌が小机方の残兵を処刑した「磔原」、その血で谷戸が赤く染まったといわれる「赤田谷戸」などの地名が現存する。
[編集] 現在
小机城址市民の森として整備されており、本丸、二の丸跡などの主要な部分は残されている。しかし、城の西側が第三京浜の開通により破壊されてしまっている。
また、この城跡の下を横浜線の城山トンネルが貫通している。
[編集] 関連項目
- 日本の城一覧
- 川和町(かつて小机城の支城である川和城があった)
- 佐江戸町(かつて小机城の支城である佐江戸城があった)
- 茅ヶ崎(かつて小机城の支城である茅ヶ崎城があった)
- 神大寺(城主・笠原氏の菩提寺・小机合戦の史跡が残る)
- 羽沢町(太田道灌が軍勢を鼓舞した歌を詠んだ「硯松」がある集落)