川和町
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川和町(かわわちょう)は神奈川県横浜市都筑区にある地域。周辺は住宅街や商店街が広がる。かつての都筑郡川和町(かわわまち)の中心地で、郡役所と町役場が置かれていた。2007年に川和町駅ができる予定である。町のシンボルは標高74mの川和富士。
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[編集] 地理
都筑区西部に位置する。鶴見川の本流、谷本川が曲がったことから川和となったといわれている。集落は川の自然堤防にあった。かつては「河輪」「川輪」「川勾」とも書いた。古くは鎌倉街道中ノ道が通っており、交通の要所だった。
[編集] 歴史
1977年9月に川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。
中世は武蔵国都筑郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条氏の評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。
江戸時代になると都筑郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。
明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から移転して置かれ、以後は行政の中心地として栄えた。1889年の市町村制により川和村は周辺の池辺(いこのべ)村や佐江戸村などと合併し、川和は都筑郡都田村大字川和となる。当時の人口630人。1934年1月1日に町制が施行され川和町(かわわまち)が成立。このため、都筑郡川和町大字川和に改称。1939年に横浜市港北区に編入され、大字川和の箇所に川和町(かわわちょう)が設置され、翌年、字山王原下に港北区役所川和出張所(のちの川和支所)が設置された。
- ※同じ表記だが、「都筑郡川和町」は一自治体であり川和を含む周辺地域の名称であるのに対し、「港北区川和町」は自治体が設置した一つの町であり範囲も本来の川和に限定されている。
1929年には、東京横浜電鉄(現在の東急バス)による乗合バスが東神奈川駅~川和間で運行を開始し、漸く公共交通機関が運行されるようになった。(なお、これ以前にも同区間には乗合馬車や乗合自動車が運行されていたが、後者はいわば現在の乗合タクシーに近い業態であったため、大量輸送機関の地区内乗り入れはこれが最初である。)1947年には横浜市営バスも乗り入れを開始した。
1962年の鴨居駅の開業は企業進出の契機となり、工業地帯へと化していった。同年には港北区民の強い誘致運動により、港北区初の県立高校である川和高等学校が設立。以後、厳しい指導や学区の細分化などにより、横浜北部学区のトップ校の地位を築いた。
1969年4月、港北区役所川和支所の管内をもって緑区が設置され、従来の川和支所の位置に緑区役所が置かれた。しかし、1972年4月に区役所庁舎が中山に移転するとこれまでの地域の中心地としての役割が薄れ、翌1973年4月に緑警察署(かつての川和警察署)も中山に移転。その後も川和郵便局(現在の横浜緑郵便局)が1991年に、緑土木事務所(区役所跡地に所在)が1994年にそれぞれ中山へ移転し、1999年の横浜地方法務局川和出張所(現在の青葉出張所)の荏田への移転でかつての行政の中心地としての役割は完全に終了した。
1980年代後半より、乱開発を防ぐべく計画的に行われた港北ニュータウンの建設により急速に宅地化が進んだが、鶴見川沿いは市街化調整区域であるため、田舎町の面影も残る。1994年港北区・緑区の再編成に伴い、都筑区に編入。2008年3月までに横浜市営地下鉄グリーンラインが開通して川和町駅が開業する予定となっており、大幅な利便性の向上が期待されている。
[編集] 川和の菊
江戸時代の文政の頃から栽培された菊は、「川和の菊」として国内で著名であった。菊は幕臣の松浦氏から譲られたものであり、研究により栽培された新種の菊が宮内省に献上されたのがはじまりである。多くの皇族や著名人に親しまれた。今でも「川和の菊」と呼ばれる豪商の旧家が残っている。酒の醸造施設や150種類のツバキが集められているが、公開はしていない。川和小学校と川和中学校の校章はこの菊にちなんでいる。
[編集] 川和の市
かつて、川和で市が開催された(川和の市)「元石川の鍛冶屋」「佐江戸の饅頭屋」など、各地から商人が集まってきた。昭和に入ると流通機関の発達などから徐々に衰退していった。
[編集] 川和の虫送り
かつて7月25日に、農薬がなかったため、稲の害虫をたいまつの火でおびき寄せて焼き殺してしまう行事が開催されていた(川和の虫送り)見物人が多く集まり、屋台も出て非常に賑わった。戦後は地域文化伝承のため数回行われたが、現在では火事の危険などもあり行われなくなった。
[編集] 町周辺
- 1962年設立。旧横浜北部学区のトップ校。
- 江戸時代末期に築かれた郷土富士。遠望が利き、川和のシンボルとなっている。
- つづき病院
- 公社川和団地
- 富士通化成本社
[編集] 主な小字
「城」に関する小字は、かつて川和城があった名残である。
- 城古場(ぎこば)
- 貝坂(かいさか)
- 城山(しろやま)
- 妙蓮寺下(みょうれんじした)
- 山王原(さんのうばら)
- 河輪森(かわわもり)
- 八幡神社周辺に多くの木が生い茂っていたことから由来する
- 上サ(かさ)
- 町の中心より上にあるからという説と、花山天皇が八幡神社でお参りした時、ここに立ち寄ったことから、「花山」が「上山」となり、「上サ」に変化したという説などがある
- 宿(しゅく)
- かつて市が開かれたことから由来する
- 中村(なかむら)
- かつて河輪村の中心部にあったことから由来する