小里貞利
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小里 貞利(おざと さだとし、1930年(昭和5年)8月17日 - )は日本の政治家。元自由民主党衆議院議員、自民党総務会長、労働大臣、震災担当大臣などを歴任。元・小里派(現・谷垣派)領袖。
鹿児島県霧島町(現霧島市)出身。鹿児島県立加治木高等学校卒業。鹿児島県議を6期18年勤め上げた後、1979年より自由民主党から衆議院議員に連続当選9回。宏池会(大平派)に属し、派内でも数少ない党人派として、田中六助に師事、その後は加藤紘一を支える。
1994年、細川首相が辞任し羽田連立内閣が発足すると、当時国会対策委員長だった小里は、閣外協力に転じた日本社会党・村山富市中央執行委員長、野坂浩賢社会党国会対策委員長とのパイプを生かし、森喜朗幹事長と共に水面下で接触、羽田倒閣への口火を切った。また、1996年、橋本連立内閣の発足で衆議院予算委員会の筆頭理事に就任し、住専処理法案で新進党の攻防戦に展開し同法案の成立の際に新進党理事の小沢辰男、森本晃司の威圧に屈する事無く採決に持ち込むなど、その政治手腕を発揮する。
1990年の労働大臣を皮切りに次々と入閣、2000年には党総務会長に就任した。特に1995年の阪神・淡路大震災では、震災担当大臣に任じられて政府の初動の体制の遅れを取り戻して阪神地区復興の準備を整えた事で全国に名を知らしめた。
同2000年に起こった加藤の乱では、加藤、山崎拓両人に、不信任投票はせず、本会議欠席までに留めるよう説得し、その裏では幹事長・野中広務とサシで会談、欠席派議員に対しての除名や処分を行わないことを約束させる。その後も少数派となった加藤派へと参加し、一貫して加藤支持の姿勢は変えなかった。2002年に加藤が議員辞職をすると、派を預かり小里派会長となった。
趣味はオートバイ。地元に帰ると、今でもたまに夫人をサイドカーに乗せ、愛車のハーレーダビッドソンでツーリングに出かけるという。1997年9月に、ロッキード事件の有罪議員・佐藤孝行が世間の批判を受け総務庁長官を辞任した際、橋本龍太郎首相が後任に指名したが、九州をツーリング中で連絡が取れなかったという逸話がある。小里はツーリング服を空港で着替え、そのまま首相官邸に向かった。
[編集] 略歴
- 1959年、鹿児島県議選に出馬し当選。鹿児島県議会議長も務める(連続6回)
- 1979年10月、衆院選に初当選。
- 1990年2月、衆院選後に第2次海部内閣で労働大臣として初入閣。
- 1991年11月、宮沢内閣の発足で総裁派閥の宮沢派から党副幹事長に就任。
- 1993年8月、野党に転落した自民党の河野洋平総裁の下で国会対策委員長に就任。
- 1994年6月、自民党・社会党・新党さきがけの3党による村山連立内閣が発足し、北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官に就任。
- 1995年1月、阪神・淡路大震災が起こり国務大臣・震災対策担当大臣に就任するが、8月の内閣改造で退任。
- 1997年9月、内閣改造で総務庁長官に就任。
- 1999年9月、自民党総裁選に宏池会・加藤派の加藤紘一会長の出馬で推薦人になるも現職の小渕恵三総裁に敗れる。
- 2000年7月、執行部の役員改選で党総務会長に就任。11月の加藤の乱では野中幹事長から加藤氏への説得依頼され説得工作に動く。その後、総務会長の座を退き加藤派の事務総長に就任すると同時に加藤氏を擁護する立場になる。
- 2002年4月、加藤氏が秘書が裏金疑惑で逮捕された事により辞職し、旧加藤派会長代行に就任。その後正式に小里派会長となる。
- 2005年8月9日に引退表明、長男の泰弘が後継者となる。
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