加藤の乱
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加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月に第2次森喜朗内閣打倒を目指して与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした一連の政治行動。別名は加藤政変・YK革命。
党幹事長の野中広務による党内引き締めにより、加藤の意図は失敗したが、翌年春の自民党総裁選での小泉当選への布石となった。
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[編集] 概要
2000年11月20日の衆議院本会議に向けて、野党が森内閣不信任決議案を提出する動きを見せると、与党・自由民主党の加藤紘一元幹事長(当時宏池会会長)とその同志の国会議員が、賛成もしくは欠席すると宣言した。山崎派などが同調すれば不信任案が可決され、森内閣は総辞職か解散を余儀なくされる。この発言は、加藤派の自民党からの独立、政界再編などさまざまな憶測を呼んだ。
森内閣は、五人組による不透明な政権の誕生、神の国発言、中川秀直官房長官のスキャンダルによる辞任などで、国民の支持率は低迷を続け、加藤は「国民の75%が内閣を信任していない」と発言していた。
[編集] 遠因
派閥を継承し、総裁候補としての実績を着々とあげつつあった加藤と山崎。総裁候補の登竜門として、総裁選に出馬するも、小渕に事前予想通りに敗れた。が、あくまでもここは登竜門のつもりだった加藤・山崎であったが、小渕は2人の総裁選出馬自体に激怒した。小渕は無投票での再任を願っていた。事前予想では橋本派を中心に結束した小渕陣営が圧倒的に有利で、総裁選は形式的なものにすらすぎない状況であったが、ここで加藤が小渕に政策論争を挑んだこと自体が小渕の逆鱗に触れた。温厚なキャラで通っていた小渕だが、この後の加藤・山崎への対応は激烈を極めた。「あいつは俺を追い落とそうとした」と加藤・山崎派を徹底的に干していく。非主流が干されることは総裁選の常であるが、小渕の対応はその範疇を越えていた。小選挙区導入により、徐々に執行部の権力が圧倒的に強くなり、非主流派の立場は一層厳しいものとなった。当時の加藤は改革派のイメージが強く(小渕と財政に関して決定的に政策主張が違っていた。財政健全派や市場主義派に支持されていた。)、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していた。また党内でも第二派閥宏池会の派長、YKKの長男として総裁候補一番手と認識されていた。しかし、非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕が死去し、森総理が不透明な形で誕生する。順番的に遅れをとり焦りが極まる中、森政権に不人気がピークに達し、一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとしたが、森との経済・財政政策が決定的に違う加藤にとっては、それは自らの人気を下げる行為にしかならず、その要請を拒んでいた。 山崎は、政界入り後から加藤の盟友であり、政権構想もあくまでも加藤との連携が大前提であり、先に加藤、次に山崎という考えであり、とことん加藤について行くつもりであった。また、当時の干された状況では、ますますその道しか打開策がなかった。
[編集] 加藤の発言
- 意思表明時
- 「森首相に改造はやらせない。」
11月9日夜、虎ノ門ホテルオークラ内日本料理屋「山里」での政治評論家(渡邉恒雄、早坂茂三、中村慶一郎、三宅久之、屋山太郎ら。中曽根派に強い面子)たちとの会合で、倒閣を宣言。この発言から加藤の乱が始まった。 (ここが計画的なものだったのか、評論家たちに煽られて突発的に言ったものなのかが真相が明らかになっていない。)
- 採決の直前
- 「これから長いドラマが始まります。」
- 「100%勝てるが、今回ぼくは首相になれないだろう。次は河野さん(河野洋平外相)かもしれない」
(17日未明に切り崩しの多数派工作が始まっていた時点での側近議員への電話)
- 乱の後
- 「私(加藤)は自民党内部での変革を望んでおり、国民は自民党を超えた政界の変革を望んでいた。これが大きな誤算だった」(サンデープロジェクトにて)
[編集] 周辺の発言
- 「加藤は熱いフライパンの上でネコ踊りさせておけばいい」
- 11日夜、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれた主流5派閥の会合にて
この発言以前にも各有力者が加藤を批判するコメントを出していたが、エスカレートして橋本がこの発言を行った。加藤を応援する側の世論から格好の批判対象となり、主流派の中からもこのコメントに対して下品だと批判が出た。
[編集] 本会議場でのコップ水事件
本会議の演説において、松浪健四郎議員がヤジに激昂し、壇上からコップの水をかけるという事件が起こった。
加藤の乱で揺れていた森内閣不信任案決議で、保守党を代表して反対討論を行っている最中、民主党議員から野次られた(松浪本人は、暴言を吐いたのは永田寿康であると主張したが、当人は否定していた)ことを理由に、国会の壇上から永田に目掛けてコップの水を浴びせた。野次の内容は「おまえ、党首(扇千景)と何発やったんだ」と言った可能性が高いとの噂があるが、松浪自身が否定している。
水かけの直後、抗議する野党議員が一斉に演壇に押しかけ大騒ぎとなり、あまりの音量に松浪は耳をふさぎながら早口で草稿を読み上げ演壇から降りた。松浪はこの場で議場からの退場の処分を下された。
[編集] 宮沢喜一
また浜田幸一によると、加藤は事前に宮沢喜一から「乱」の了解を得ていたか、煽られていたのだという。ゆえに、その後の宮沢の行動をみると疑問符をつけざるを得ない。 後に、舞台裏の話として、宮崎哲弥も宮台真司とのM2対談で宮沢黒幕説を述べている。
前日の宮沢との食事会で加藤がプランを説明すると、宮沢はそれを肯定・後押しするような態度を加藤に取ったというが、浜田・宮崎ソースとも、宮沢は加藤に対してはっきりとした言質を与えていなかった点では一致している。
かつて公家派閥とも揶揄された宏池会・旧宮沢派を結果的に加藤が継承できなかったのは、加藤の純粋性にある。
宮沢の政治的な権謀術数を見抜けず、素朴に信頼した点が、政治家としての詰めの甘さを露呈したと言える。しかし、その後の議員辞職・出直し後の加藤はその詰めの甘さこそが、むしろ加藤自身の魅力あるいは政治的資源に利用しうるリソースであるとの確信を持った。
その証拠に、今まで自身があまり顧みることの無かった地元の小さな集会や、居酒屋などの会合に積極的に参加するようになり、以前にも増して人間の幅が広がったという見方をされている。
[編集] 小泉純一郎
加藤、山崎拓とともに「YKK」と呼ばれていた小泉は、森首相の出身派閥である森派の会長に就いていた立場から、また今後の権力闘争のことを念頭に置き、不信任案に反対した。その意味では、小泉は巷で言われるような脱派閥型政治家ではなく、むしろ福田赳夫以来の伝統を持つ森派を代表した派閥政治家であり、彼が破壊したかったのは旧竹下派による支配構造だけであったともとれる。
一部メディア・TBSのブロードキャスターは、小泉が森派の一部とともに離党し加藤と合流するケースを報道していたが、現実味は薄かった。
小泉は、衆議院本会議場でこの件について相談を加藤から受けている。その中で小泉は「俺ならもっと早くやっている」と語っており、加藤は小泉の支持(少なくとも個人的支持)は得たと解釈した向きがあった。評論家たちとの夜の会合の後に、マスコミが「加藤決起か!?」と伝えた際に、YKKの仲の小泉が「加藤は本気だ」と述べたところから、加藤の決起が本物だということが一気に認知された。
乱後にYKKが初めて同席したパーティーで、小泉が「YKKは友情と打算の二重構造」と発言したことが注目を浴びた。笑顔で発言した小泉と、苦渋の表情で発言を聞いた加藤・山崎との表情の対比も視聴者に印象を残した。
加藤に同調しなかったことで党内での影響力を維持することに成功した小泉は、翌年に首相の椅子に座ることになる。
[編集] 野中広務
橋本派の野中広務幹事長は当然、加藤の行動を批判して、切り崩しの先頭に立った。 実質的に、切り崩し側の総責任者的ポジションとなり、マスコミにも多々出演した。 全てが決まると言われた不信任提出前の土日の日曜日に北海道の会合に出席するという行動すらとっている。(日曜の政治関連TVには中継で出演) 週末以前は、「除名」の一本槍で超強気な姿勢を見せていたが、日曜のTV発言で、条件的に含みを残す発言に変わった。 (水面下では小里が、野中・青木らと交渉を断続的に続けていた。)
かつて野中は加藤が経世会と距離を置くまでは加藤を総理にすると公言してはばからなかった。(加藤が幹事長時代に幹事長代理として補佐し、新進党からの一本釣りなどで成果を上げた関係であった)
[編集] 加藤の戦略
加藤はマスコミやホームページ、2ちゃんねる(運営側に了承を得て公式利用)などを通じて世論に訴える戦術をとり、広く公衆の関心を集めた。
不信任案提出当日の夜は、特集番組を放送したニュース番組等は軒並み高視聴率を記録し、タクシー・居酒屋・銭湯などは利用者が通常日に比べ激減した。
[編集] 結末
しかし、党の議員に同調者が広がらず、ベテラン議員の中に保守本流を自任する自派が党を割ることや野党の不信任案に同調するという禁じ手への不満・不安がある中で、野中を中心とする執行部が除名を強硬に主張して切り崩された。加藤は40日抗争などの過去の例を出し、除名は不可能と主張したが、野中は一切妥協せずに必ず除名すると押し通した。切り崩し終盤には、加藤・山崎に除名届を内容証明郵便で送るなど徹底して除名の意思を崩さなかった。まず、加藤との決別を表明したベテランメンバーの中に宮沢の名前があったことが大きかった。それに続いて、切り崩しが進み形勢が微妙だった時点で、加藤の政権構想立案を担当した丹羽雄哉や、武闘派で側近中の側近と言われた古賀誠が離反したことで形勢は一気に決まった。加藤の腹心でもある小里貞利総務会長の説得を受け入れ、欠席戦術に切り替えた。これを加藤は涙ながらに「名誉ある撤退」と呼んだ。
[編集] 「大将なんだから」
加藤派の議員が切り崩された中で、敗北を確信した加藤、山崎と側近議員がその後の対応を協議する場面の一部がそのままテレビで放映された。
途中、加藤、山崎の二人が単独で議場に不信任票を投じに行くと発言すると、谷垣禎一が加藤の肩をつかみ、「加藤先生、大将なんだから!1人で突撃なんてダメですよ!」と必死で慰留した(谷垣が加藤に向かって「あんた」と発言したと言われることがあるが、実際そのような発言はしていない)。側近たちの涙ながらの説得に、加藤は顔を紅潮し、涙をにじませ、歯を食いしばりながら立ちつくすのみであった。
[編集] 民主・自由党の動き
加藤は乱発生後、盛んに菅や鳩山との密接な関係をアピールした。菅については「私の携帯には菅さんの電話番号が入ってます」などとマスコミにアピールしていた。マスコミ・世間は、不信任案否決に至っても、加藤が自民党を離脱し民主党に組すると当然思ったが、あくまでも加藤は自民党に残ると主張。自民党を離脱したかつての様々な勢力は、結局一過的なもので力を失っている。あくまでも自民党の中で改革を狙うと主張。(もし離党に至った際に、加藤派自体《特にベテラン》がついてこないとの計算があったと言われる。派内説得にあたる際も、再三「離党」は絶対に無いと説得している。また、加藤には保守本流という自負が強く、自民党自体を否定していた訳ではない。保守本流の自負が強いのは他の宏池会ベテランにも言えることなので、離党が派内事情的に非現実的であるという認識があった。)この民主党との仲のアピールと、自民党離脱の絶対否定が、マスコミ・世間にいわゆる「わかりづらいもの」として伝わった。
自由党党首の小沢一郎は、11月17日(金曜日)に不信任決議案を提出するよう民主党代表の鳩山由紀夫に主張したが、これは週末議員が地元に戻り、後援者から不信案への対応を考え直すように説得される可能性が考えられるためだった。しかし加藤が土日で逆に派内議員を説得すると主張し、鳩山は11月20日(月曜日)に提出、結果的に土日に切り崩され、加藤派所属衆議院議員の半数は加藤と袂を分かった。
加藤派の園田博之と山崎派の渡海紀三朗はかつての新党さきがけに所属しており、民主党の鳩山・菅直人らさきがけ出身者と加藤・山崎が連携を模索していたと見られている。
乱失敗後、小沢は「男子じゃないな」とコメントしている。
[編集] 派閥の分裂
この政局の結果、加藤派・宏池会は、以下の様に分裂した。
- 加藤と行動をともにしたグループ(加藤派)
- 反対したグループ(堀内派)
- 宮澤喜一(前派閥会長)
- 鈴木善幸 既に引退していたが支持を表明した(前々派閥会長)
- 池田行彦(宏池会創世の池田勇人の後継)
- 丹羽雄哉(加藤の政権構想執筆者)
- 堀内光雄
- 古賀誠(加藤の側近中の側近)
- 太田誠一ら
宏池会の源流的存在の宮澤・鈴木・池田らが反対に周り、加藤の有力側近まで反対に周りベテランは追従し、宏池会の大勢は反対が決定的となった。
両グループともに宏池会を名乗る異常事態となっている。
- また、上記どちらのグループにも属さず、一時無所属、あるいは現在も無所属を通している議員(石原伸晃ら)も存在する。
[編集] 乱がもたらした影響
当時、世論の森政権・自民党への支持が極端に低かったことから、加藤への期待感がとても大きかったにも関わらず、離党は拒否し、投票も棄権したことにより、逆に加藤への失望感や批判が渦巻いた。
加藤派の人数が大幅に減少したこと、党役員改選によって加藤派の小里貞利が総務会長から外されたことによって、加藤の党内影響力が大幅に低下した。さらに南青山マンション疑惑や秘書逮捕などによって、加藤紘一は派閥会長辞任、党離党、議員辞職に追い込まれ、政界への影響力低下に拍車をかけた。議員辞職後の国政選挙で議員当選して国政に復帰。自民党に復党し、小里派の最高顧問に就任したが、加藤及び小里派の政界影響力には既に限界があった。この様なことから、小里派も派の看板を将来の総裁候補と呼ばれていた谷垣に切り替えた。谷垣は小派閥出身者ながらも、小泉内閣で財務相に就任し、ポスト小泉の1人として認知されるようになった。
[編集] 山崎派
一方、山崎派は離脱者は実質1人に留まり、派閥の結束を党内に知らしめた。乱に参加したこと自体には党内から批判を浴びたものの、小所帯ながらも、かつて鉄の団結を誇った田中派を彷彿とさせる結束に党内から感嘆の声が上がった。しかしながら、結束は保ったとは言え、加藤の乱以後は党内での影響力は更に落ち込み窮していた。この間、加藤派との合流や、民主党への合流が噂されたが、小泉総裁誕生後は、山崎が幹事長、その後副総裁に就任し、派閥としても森派と密接な関係を保ち主流派となるなど、山崎と山崎派は党内で一定の影響力を維持することに成功した。
[編集] 森喜朗
また、不信任の対象となっていた内閣の首相だった森喜朗は2001年に内閣総辞職するも、次の首相には自派閥出身の小泉純一郎が選出され、派閥会長と後見人という立場で党内影響力を維持した。政策よりも党内の和を最も重視し、それによって出世したともいえる森が、現在に至るまで、この加藤の乱に対しての遺恨を捨てきれていない。乱の森へ与えた影響の大きさが垣間見える。
2006年の総裁選で森派は当初、安倍晋三と福田康夫の2人の有力候補を抱えていたが、森も当初は福田擁立も十分に考慮していたとみられる。しかし、派内や党内で安倍の支持が大きくなっていったことと同時に、福田を推す反小泉勢力の中心が、途中から山崎・加藤に移っていったことが、森の福田支持への意欲を急速に失わせた大きな要因ともいわれる。
[編集] 橋本派への影響
主流派・執行部側として、乱の鎮圧にあたった野中を中心とする橋本派は面目躍如となった。しかし、決議案投票に若手数人が棄権した。鉄の団結を誇るとされた橋本派の足元が最初に揺らいだ場面となった。それまでにも分裂等を経験していた橋本派であったが、それまでの分裂・離脱は派内有力者に引っ張られるケースであった。今回の離脱は、若手自らの意思によるもので、派閥の影響力にほころびが見えてきた例となった。
以前からの森の不適切発言が連続し支持率が急落していたため、橋本派内では森擁護の意欲が薄れていた。加藤の乱自体は徹底して鎮圧したものの、乱鎮圧最中に既に橋本派内で森政権維持を断念・拒否したとすら見られる動きが出ている。(「乱そのものは徹底的に鎮圧するが、決して森内閣を今後も支援していくわけではない」といったニュアンスの発言が橋本派幹部から多々出ていた。)乱後は森政権から距離を置き始め、ポスト森を模索するようになった。これに小泉が激怒して当初は勝ち目のないと言われた総裁選出馬へ向かう事になる。
[編集] 不信任決議案における投票行動
[編集] 賛成(190人)
[編集] 反対(237人)
[編集] 欠席(50人)
- 自由民主党:42人
- 宏池会(加藤派):21人
- 近未来政治研究会(山崎派):17人
- 平成研究会(橋本派):2人
- 無派閥:2人
- 21世紀クラブ:3人(森田健作、金子恭之、近藤基彦)
- 無所属の会:2人(柿沢弘治、粟屋敏信、土屋品子)
- 民主党・無所属クラブ:1人(三村申吾)
- 無所属:2人(渡部恒三、中村喜四郎)
[編集] 退場(1人)
- 保守党:1人(松浪健四郎)
[編集] 本会議に欠席した自民党議員
[編集] 宏池会(加藤派)
[編集] 近未来政治研究会(山崎派)
[編集] 平成研究会(橋本派)
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※病欠