山口良治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山口良治(やまぐち よしはる、1943年2月15日 - )は、京都市立伏見工業高等学校ラグビー部総監督であり、映画・TVドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなった教師である(科目は体育)。元ラグビー日本代表。愛称は「泣き虫先生」。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 誕生から高校時代
福井県三方郡美浜町に生まれる。小学校時代に継母と確執があったが、現在では和解した。
中学校時代には甲子園で見たプロ野球に魅せられ、野球部に所属。キャッチャー兼主将となる。
その後、役場か農協での勤務を希望した父の薦めで、福井県立若狭高等学校土木科に進学するも、高校が若狭農林高等学校へと改組し、野球部も廃部された。そのため甲子園出場の夢が途絶え、その後、先輩の薦めでラグビー部に所属した。
[編集] 大学時代
大学は大学日本一にもなった名将芳村監督が率いる強豪日本大学に進学するも、ハードな練習に挫折し、体育科教師に目標を転向して休部。しかし、勉強もせずに堕落した生活を送る。
一念発起して日本体育大学への転校を決意し、芳村監督から激励の言葉と日体大ラグビー部の綿井監督への推薦状を貰い、日体大の2年次に編入。日大より更にハードな練習に挫折しそうになるも、人並み外れた努力で頭角を現し、100人以上いる部員の中で4軍から1軍にまで昇格し、関東選抜に選ばれるまでに至った。
[編集] 教師・現役選手時代
大学を卒業し、岐阜県立長良高等学校、岐阜県立岐阜工業高等学校へ教師として赴任し、1966年にラグビー日本代表に選出される。翌年、京都市教育委員会へ転任。1968年のニュージーランド遠征、1971年の対イングランド戦、1973年の英仏遠征など数々の国際試合に出場し、名フランカー、名キッカーとしてアジア大会優勝に2度導くなど1974年の現役引退まで活躍した。
[編集] 教師・監督時代
京都市立伏見工業高等学校ラグビー部監督として、当初は京都一を目指して意気込む彼に部員達は反発し、大阪体育大学浪商高等学校・大阪府立枚方高等学校との練習試合をボイコットした。しかし、同年の京都府春季総合体育大会で京都の名門花園高等学校に112対0の大敗を喫し、その悔しさから部員達は努力を重ね、同年の近畿大会で準優勝を果たした。
以後、ラクビー部は常勝軍団に生まれ変わり、
- 1978年 近畿大会準優勝
- 1979年 全国大会ベスト8
- 1980年 全国大会優勝、国体優勝
- 1981年 近畿大会準優勝
- 1982年 近畿大会優勝、全国大会3位
- 1983年 近畿大会優勝、全国大会ベスト8
- 1986年 近畿大会優勝
- 1987年 国体優勝、全国大会ベスト8
- 1988年 国体3位
- 1989年 国体優勝
- 1991年 近畿大会優勝
- 1992年 近畿大会優勝
- 1992年 全国大会優勝
- 2000年 全国大会優勝(監督退任後)
- 2005年 全国大会優勝(同上)
などの優れた成績を残した。
公立高校で無名という決して恵まれてはいない環境からの全国制覇と、ラグビー部生徒への体当たりの指導が多くの反響を呼び、TVドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなった。
[編集] 監督退任後
1998年、伏工から京都市役所に戻って京都市スポーツ政策監となり、伏工ラグビー部では総監督に退く。2003年の定年後は京都市スポーツ政策顧問、京都アクアリーナ館長を歴任。2004年より浜松大学教授、ラグビー部特別顧問(監督は教え子の薬師寺大輔=元神戸製鋼、アドバイザーに伏工全国大会初優勝時のコーチだったスティーブ・ジョンソン)。
講演活動も多く、2003年に阪神タイガースの星野仙一監督から依頼され講演を行い、選手達に「勝ちたいんや!」と言う強い意識を芽生えさせ、阪神を18年ぶりの優勝へと導く原動力となった。
[編集] 教え子
[編集] 著書
- 『信は力なり ―可能性の限界に挑む―』 旬報社
- 『俺がやらねば誰がやる 高校ラグビー日本一監督熱血教育論』 講談社
- 『夢を活かす! ―熱血師弟の実践的子育て―』 講談社
- 『17歳を語る山口良治 ―伏見工業高校ラグビー部総監督―』 アートヴィレッジ
- 『プロジェクトX ザ・マン ―すべては感動からはじまる―』 日本放送出版協会
- 『気づかせて動かす ―熱情と理のマネジメント―』 PHP研究所
- 『生きる力を伝えたい ―泣き虫先生の熱血教育論―』 幻冬舎
- 『熱き思いが壁を破る ―スクール・ウォーズ流 涙の教育論―』 PHP研究所
[編集] テレビ
[編集] 山口良治に相当する役を演じた俳優
- テレビドラマ
- 映画