山本周五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
![]() |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水三十六(しみず さとむ)。
目次 |
[編集] 年譜
- 1903年(明治36年)山梨県北都留郡初狩村(現・山梨県大月市初狩町下初狩)にて父清水逸太郎、母とくの長男として誕生。
- 1907年(明治40年)北豊島郡王子町豊島(現東京都北区豊島)に転居。
- 1910年(明治44年)神奈川県横浜市久保町(現神奈川県横浜市西区久保町)に転居。
- 1916年(大正5年)横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町2丁目(現銀座2丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
- 1923年(大正12年)徴兵検査を受けるも、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。
- 1924年(大正13年)再び上京。帝国興信所(現帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。
- 1926年(大正15年・昭和元年)文芸春秋4月号に「須磨寺附近」が掲載されこれが文壇出世作となる。同年10月20日、脳溢血で母とく死去。
- 1928年(昭和3年)千葉県浦安町(現千葉県浦安市)に転居。同年10月日本魂社を勤務不良で解雇。
- 1929年(昭和4年)東京虎ノ門に転居。
- 1930年(昭和5年)宮城県出身の土生きよいと結婚。
- 1931年(昭和6年)東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。
- 1934年(昭和9年)6月26日、中風で父逸太郎死去。
- 1943年(昭和18年)第17回直木賞に「日本婦道記」が推薦されるも辞退。
- 1945年(昭和20年)3月9日東京大空襲の日に膵臓癌で妻きよい死去。
- 1946年(昭和21年)同時の自宅から筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。
- 1961年(昭和36年)文芸春秋読者賞に「青べか物語」が推薦されるも辞退。
- 1967年(昭和42年)2月14日、同時仕事場として使用していた旅館間門園別棟で肺炎と心臓衰弱のため死去。享年63歳。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名恵光院周嶽文窓居士。
[編集] ペンネームの由来
ペンネーム「山本周五郎」の由来として(他のペンネームとして、俵屋宗八・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿を用いた)、自身の出世作となった「須磨寺附近」を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文芸春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した説があるが、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かでは無い。
しかしながら雇主であった店主の山本周五郎氏は、自らを酒落斎という雅号も持ち文芸に理解を持っていた。その為、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームがそのことに対する深い感謝の念があったと思われる。
[編集] 作風
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。
また伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
山本の死後、数多の作品に登場する人物たちの台詞が集められ『泣き言は言わない』という箴言集も作られている。
『日本婦道記』で第17回直木賞に推されるも辞退し直木賞史上唯一の辞退者となった、直木賞を受賞辞退した裏には、一説に賞を主催する文藝春秋の菊池寛との不和が挙げられる。
死後、氏の功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。
担当した雑誌編集者には、『桃太郎侍』で知られる山手樹一郎こと井口長次、木村久爾典などがいる。
[編集] 逸話
尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は一言、「三十六〔周五郎の本名〕。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ」と言ってくれた。
また、若い頃、植物学者 牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ「虚空遍歴」の主人公である中藤沖也は、中原がモデルであると言われている。
[編集] 受賞歴
- 1926年『須磨寺附近』で第1回文藝春秋懸賞小説
- 1959年『樅ノ木は残った』で第13回毎日出版文化賞
[編集] 主な作品
- 日本婦道記(1942年)
- 正雪記(1953年-1956年)
- 樅ノ木は残った(1954年-1958年)
- 赤ひげ診療譚(1958年)
- 青べか物語(1960年)
- 季節のない街(1962年)
- さぶ(1963年)
[編集] 関連作品
- 映画
- 椿三十郎(1962年 監督:黒澤明、『日日平安』が原作)
- 青べか物語(1962年 監督:川島雄三、脚本:新藤兼人)
- 五瓣の椿(1964年 監督:野村芳太郎)
- 赤ひげ(1965年 監督:黒澤明、『赤ひげ診療譚』が原作)
- どですかでん(1970年 監督:黒澤明、『季節のない街』が原作)
- いのちぼうにふろう(1971年 監督:小林正樹、『深川安楽亭』が原作)
- どら平太(2000年 監督:市川崑、『町奉行日記』が原作)
- 雨あがる(2000年 監督:小泉堯史)
- かあちゃん(2001年 監督:市川崑)
- 海は見ていた(2002年 監督:熊井啓)
- SABU ~さぶ~(2002年 監督:三池崇史、『さぶ』が原作)
- TVドラマ
- 樅ノ木は残った(1970年 NHK大河ドラマ 脚本:茂木草介)
- 赤ひげ (1972年 NHKドラマ 、『赤ひげ診療譚』が原作、脚本:倉本聰ほか 主演:小林桂樹)
- ぶらり信兵衛・道場破り(1973年~74年 フジテレビ、『人情裏長屋』が原作。パイロット版の脚本:倉本聰)
- 夫婦旅日記 さらば浪人(1976年 フジテレビ、『雨あがる』が原作)
- 大江戸風雲伝(1994年 NHKドラマ 、『栄花物語』が原作)
- 五瓣の椿(2002年 NHKドラマ 脚本:中島丈博)
- 初蕾(2003年 生誕百周年記念番組、TBS 脚本:宮川一郎)
ほか多数
- 舞台
- 夢ごころ(名鉄・東宝提携特別公演/名鉄ホール)
- 川霧の橋(宝塚歌劇月組公演)