山田宏
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山田 宏(やまだ ひろし、昭和33年(1958年)1月8日 - )は、杉並区長。東京都八王子市出身。
生年月日 | 昭和33年(1958年)1月8日 |
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出身地 | 東京都八王子市 |
出身校 | 京都大学法学部卒 松下政経塾塾生 |
学位 | 法学士 |
前職 | 衆議院議員 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
在任期間 | 平成11年(1999年) ‐ (現職) |
当選回数 | 2回(衆・1回) |
所属(推薦)党派 | 無所属 |
ウェブサイト | 杉並区長山田宏 |
都立国立高校を経て、1981年京都大学を卒業後、松下政経塾に第2期生として入塾。同期生には長浜博行、松原仁、島聡、海老根靖典、河内山哲朗、神藏孝之など、行動派がズラリと揃う。 在塾中は松下幸之助の元で新党構想を練り上げたり、積極的に塾外へ出て人に会う機会を作るが、持ち前の行動力が災いして職員との対立も根深かった。
1985年に松下政経塾を卒塾後、新自由クラブの河野洋平に見込まれて東京都議選に立候補し、最年少で当選。第1期生の小野晋也に続く政経塾2人目の政治家となる。 赤いラグビージャージを身に包んでの選挙運動はマスコミも注目し、マイク一本、ノボリ、駅頭演説など、今日に続く若さと素人感覚で有権者にアピールする政経塾の選挙手法はこれが始まりとされている。1989年に再選。
都議会議員になってからは、松下の意向を酌んで「政経塾新党」の構想の実現を模索する。そんな中、政経塾の評議員も兼務していた細川護煕から新党への参加を請われ、野田佳彦、長浜博行、樽床伸二、前原誠司、中田宏らと共に日本新党への立ち上げに参画する。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に立候補して初当選。日本新党の立法調整委員長(国会対策委員長)に就任する。しかし、東京佐川急便事件の発覚により細川内閣は総辞職。1994年12月9日日本新党は解党し、新進党へと参加する。
1996年の第41回衆議院議員総選挙に立候補するが、同じ選挙区の石原伸晃に敗れて落選。それからしばらくして再び新党結成へと動き始め、日本新党に参画した野田、長浜、中田に加え、市村浩一郎、海老根靖典、河井淳一、小田全宏、勝又恒一郎らの面々や、さらに政経塾以外から河村たかし、中村時広らが参加して、総勢十数名による「志士の会」を発足する。しかし、その後の第18回参議院議員通常選挙での民主党の躍進が大きく影響し、活動は数ヶ月で頓挫した。
1999年、東京都杉並区長選挙に立候補し、当選を果たす。当初は衆議院の議席奪回が狙っていたので、区政にはなんの関心も示さなかったが、「国を変えるのは地方自治体でもできる。」という趣旨で年配の女性支援者から届いた手紙がきっかけとなり、二度と国政へは戻らない事を決意して区長選への出馬を決断した。2003年に再選し、現在2期目。
松下幸之助が最も目をかけ、松下政経塾一のリーダーシップと抜群の行動力を持つ。野田佳彦や前原誠司は、政経塾出身者で最も内閣総理大臣にふさわしい人物として、揃って「山田宏」を上げている。それほどの人物ゆえに、国政への復帰を願う声が根強い。しかし、本人は「国会議員には二度とならない」と否定している。地方分権の進行に伴って、地方の首長の権限は増し、一国会議員よりも、その手腕を発揮しやすいことを理由の一つに挙げている。
[編集] 略歴
- 1981年 - 京都大学法学部卒業。松下政経塾入塾(第2期生)。
- 1985年 - 東京都議会議員選挙に立候補し、最年少で初当選。
- 1989年 - 東京都議会議員選挙で2度目の当選。
- 1992年 - 日本新党旗揚げに参画する。
- 1993年 - 第40回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。
- 1996年 - 第41回衆議院議員総選挙に立候補するが落選。
- 1999年 - 東京都杉並区長選挙に立候補し、初当選。
- 2003年 - 東京都杉並区長選挙で2度目の当選。
[編集] 著作
- 『一言(いちごん)申しあげます。―杉並改革』ぎょうせい、2004年7月、ISBN 4324073422
- 『前人木を植え、後人涼を楽しむ―杉並改革手帖』ぎょうせい、2006年12月、ISBN 4324081301