房錦勝比古
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房錦 勝比古(ふさにしき かつひこ、1936年1月3日 - 1993年7月21日)は、千葉県東葛飾郡南行徳町(現在の市川市)出身(出生地は東京都大田区)で若松部屋所属の元大相撲力士。本名は松崎正勝(まつざき まさあき、旧姓は櫻井)。身長176cm、体重118kg。得意手は右四つ、寄り。“褐色の弾丸”との異名をとり、最高位は関脇。
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[編集] 来歴
養父が若松部屋所属の行司7代目式守錦太夫(後に式守与太夫)だったことが縁で1952年(昭和27年)1月若松部屋に入門し、同年1月場所初土俵。。当時の四股名は小櫻。房錦の四股名は出身地にちなんだものだが最初は總錦と名乗るはずが間違えて房錦と書かれた。後に訂正したが振るわず房錦に戻した。
1957年(昭和32年)5月場所新入幕。この場所いきなり大活躍、11勝3敗で千秋楽を迎え対戦相手はただ1人2敗の新小結安念山、勝てば決定戦だったが流石に負けた。それでも新入幕で優勝を争ったことが評価され敢闘賞を受賞。次の5月場所は7勝8敗と負け越したが鏡里から金星。
1958年(昭和33年)9月場所と1959年(昭和34年)1月場所は負け越したが、両場所とも千代の山から金星を獲得。1959年5月場所は前頭筆頭で9勝6敗、翌7月場所は新関脇でここでも9勝6敗。
当時土俵を支配した栃錦には9戦全敗、若乃花には1勝13敗とまるで歯が立たなかったが若乃花戦での唯一の勝利が相手を腰砕けにさせて吹っ飛ばすという豪快なものでありこれで通じなかったと言われれば不思議に思うかもしれない。また大鵬、柏戸との対戦成績はともに5勝6敗と全くの互角で撫斬も2回、関脇以下でこの両者をここまで苦しめた力士は他におらず「柏鵬キラー」と呼ばれた。ただし撫斬はいずれも三役時代なので金星が意外と少ない。色黒で固太りの体型から「褐色の弾丸」の異名をとった。同部屋の岩風とともに幕内上位を賑わせた。
膝と腰の故障を悪化させて1965年(昭和40年)11月場所には十両へ陥落、1967年(昭和42年)1月場所を最後に引退。年寄・山響を襲名。当時の若松親方(元鯱の里)の娘と結婚していたため、1979年(昭和54年)8月に先代の定年退職後に年寄・若松を継承。
しかし糖尿病を悪化させて職務が困難となり、山響親方(元大関・朝潮)を年寄・若松の後継者に指名して1990年(平成2年)3月限りに廃業。これにより射水川、鯱ノ里、房錦と3代にわたって養子縁組が続いてきた若松部屋は系統がかわり、1993年(平成5年)7月21日に亡くなった。
房錦の稽古量は少なくそれを嘆いた人もいると伝わるが、大鵬や柏戸にあれほど強かったことから考えても、もし人並以上の稽古をすれば大関になっていたのではという見方がある。
養父式守錦太夫の軍配で相撲を取った相撲は話題になった。房錦に勝ち名乗りを与えた錦太夫の声は心なし震えていたとも、感情を押し殺すかのようにひどく早口であったとも言われている。このエピソードは、のちに「土俵物語」として映画化もされた。
[編集] 主な成績
- 幕内通算:352勝391敗7休
- 幕内在位:50場所
- 三役在位:5場所(関脇3場所、小結2場所)
[編集] 三賞・金星
- 殊勲賞:2回(1960年11月場所、1961年1月場所)
- 敢闘賞:1回(1957年5月場所)
- 技能賞:2回(1959年5月場所、1961年3月場所)
- 金星:6回(鏡里1回、千代の山2回、若乃花1回、大鵬1回、柏戸1回)
[編集] 改名歴
- 小櫻 正勝(こざくら まさかつ)1952年1月場所-1952年11月場所
- 小櫻 勝彦(- かつひこ)1953年1月場所-1953年11月場所
- 房錦 勝比古(ふさにしき かつひこ)1954年1月場所-1955年1月場所
- 総錦 勝比古(ふさにしき -)1955年3月場所-1955年7月場所
- 房錦 勝比古(ふさにしき -)1955年9月場所-1967年1月場所
[編集] 年寄変遷
- 山響(やまひびき)1967年1月-1979年9月
- 若松(わかまつ)1979年9月-1990年3月
[編集] 関連項目
カテゴリ: 千葉県出身の大相撲力士 | 1936年生 | 1993年没