文楽
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文楽(ぶんらく)は、初世植村文楽軒に始まる日本の伝統芸能である人形劇、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の一派。特に大阪で発展した人形浄瑠璃の称として用いられる。現在では人形浄瑠璃の代名詞的存在。世界無形遺産。重要無形文化財。
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[編集] 三業
文楽は男性によって演じられる。太夫、三味線、人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の演芸である。客席の上手側に張りだした演奏用の場所を「床」と呼び、回転式の盆に乗って現れた太夫と三味線弾きが、ここで浄瑠璃を演奏する。対して人形のことを「手摺」と呼ぶが、これは人形遣いの腰から下が隠れる板のことを手摺ということから。
[編集] 太夫
浄瑠璃語りのこと。一人で物語を語るのが基本で、情景描写から始まり多くの登場人物を語り分けるが、長い作品では途中で別の太夫と交代して務める。掛け合いの場合には複数が並ぶ。 浄瑠璃には多くの種別があるが、文楽では義太夫節が用いられる。
なお、太夫名(芸名)の場合、1953年(昭和28年)以前は「太夫」と表記していたが、以後は「大夫」と表記するようになった。また、「若大夫」のように「太夫」「大夫」の前が2拍の場合は「たゆう」、「義太夫」「越路大夫」のように2拍以外の場合は「だゆう」と読む。
(参考:文楽ではないが、歌舞伎の舞台で義太夫節を語る、いわゆる竹本の太夫の場合は、現在でも「大夫」ではなく「太夫」と表記している。)
[編集] 三味線
太棹の三味線を使う。座り方は正座であるが、膝を広めに座り両足の間に完全に尻を落としている。 響きが重いことから「ふと」(⇔細棹は「ほそ」)ともいう。
[編集] 人形遣い
古くは一つの人形を1人の人形遣いが操っていたが、1734年に『芦屋道満大内鑑』で三人遣いが考案され、現在では3人で操るのが普通である。主遣い(おもづかい)が首と右手、左遣いが左手、足遣いが脚を操作する。「頭」と呼ばれる主遣いの合図によって呼吸を合わせている。黒衣姿だが、重要な場面では主遣いは顔をさらすこともあり「出遣い」と呼ばれる。左・足遣いは顔を隠している。
[編集] 文楽人形
文楽人形には、男女のほか、年齢・身分・性格によって「かしら」が異なり、それぞれ以下のような種類がある。
- 男性のかしら
- 男性的で哀愁を帯びた表情をたたえる悲劇の主役に用いられるかしら、文七(ぶんしち)
- 荒立役の大団七(おおだんしち)
- 武将や町人などに用いられ、一文字に結んだ口元に意志の強さがあらわれている立役、検非違使(けんびし)
- 嫌味で卑屈な表情の端敵役の陀羅助(だらすけ)
- 三枚目の敵役、与勘平(よかんぺい)
- 正直な町人のかしら、又平(またへい)
- 慈愛に満ちた心を持つ老武士、鬼一(きいち)
- 20代前後の二枚目役、源太(げんだ)
- 10代の恋愛ものの相手役に用いられる、若男(わかおとこ)
- 40代から50代頃の武将で、聡明繊細な表情を浮かべた孔明(こうめい)
- 時代物の豪快な武将、金時(きんとき) など
- 女性のかしら
- 14、5歳の未婚女性他に用いられる、初々しい表情の娘(むすめ)
- 20代から40代の幅広い女性に用いられる老女形(ふけおやま)
- 最高位の遊女としての気品と色気、芯の強さを持ち合わせた女性のかしらで、最も華麗である傾城(けいせい)
- 三枚目役のお福(おふく) など
素材は木曽檜を用い、眉(アオチ)・目(ヒキ目・ヨリ目)など動くものには仕掛けを、また内部にうなづき糸をつけるなどして、表情を豊かにする工夫が施されている。
人形の衣裳はそのつど脱がされ、かしらと別々に保管されている。 よって使用する際には、人形遣いは自分で遣う人形の衣裳をつけることが必要となる。それを、人形拵えという。
[編集] 歴史
[編集] 人形浄瑠璃について
人形芝居が江戸時代初期に三味線音楽と結びついて生まれた。太夫では竹本座の竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった優れた才能によって花開いた。一時期は歌舞伎をしのぐ人気を誇り、歌舞伎にもさまざまな影響を与えた。今日でも櫓下(最高位の太夫)は市川団十郎よりも芸事における地位が高いとされる。多くの歌舞伎が人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を丸本と称するところから、丸本物(まるほんもの)と呼ばれる。
その後、福内鬼外(平賀源内)により江戸浄瑠璃が発生した。18世紀末から19世紀のはじめにかけて(寛政年間)、初世植村文楽軒は歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった人形浄瑠璃の伝統を引き継ぎ、高津橋(大阪市中央区)に座をつくり再興させた。この劇場は1872年、三世植村文楽軒(文楽翁)のときに松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。明治末期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在[1]となった。
1909年には文楽座は松竹の経営となり、松竹が文楽の興行を行うこととなった。文楽座はのちに御霊神社境内(大阪市中央区)に移転。焼失後の1929年には四ツ橋(大阪市西区)に新築移転したが、1945年の大阪大空襲で再度焼失。翌1946年に復興したが、1956年、道頓堀弁天座跡(大阪市中央区)へ新築移転した。
1948年、松竹との待遇改善がからみ、文楽界は会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂した。こうした内紛もあって戦後は興行成績が低迷。1963年、松竹は文楽から撤退し、文楽座も朝日座と改称。新たに大阪府・大阪市を主体に文部省(現・文部科学省)・NHKの後援を受けた財団法人文楽協会が発足し、文楽界は再統一され、再出発することとなった。
一時期は人材不足に悩んだ文楽界だが、1973年に研修生制度が始まってからは、家柄に関係なく若者が門を叩くようになった。1984年には国立文楽劇場が完成し、松竹の撤退後もときおり文楽を興行していた朝日座、旧文楽座は幕を閉じる。
[編集] 主な作品
江戸時代から見て過去の出来事を扱った「時代物」[2]と、同時代のことを主題にした「世話物」がある。
[編集] 時代物
[編集] 世話物
- 桂川連理柵(桂川)
- 碁太平記白石噺(白石噺、碁太平記)
- 心中天網島(天網島)
- 心中宵庚申(お千代半兵衛)
- 新版歌祭文(お染久松)
- 曾根崎心中(お初徳兵衛)
- 近頃川原の達引(お俊伝兵衛、堀川)
- 夏祭浪花鑑(夏祭)
- 艶容女舞衣(酒屋)
- 双蝶々曲輪日記(双蝶々)
- 堀川波の鼓(波の鼓)
- 冥途の飛脚(梅川忠兵衛)
- 壺坂観音霊験記(壺坂)
[編集] 文楽以外の人形浄瑠璃
[編集] 国指定の重要無形民俗文化財である人形浄瑠璃
[編集] 相模人形芝居
神奈川県厚木市・小田原市。保護団体名:相模人形芝居連合会(林座(厚木),長谷座(厚木),下中座(小田原))。連合会には3座の他、前鳥座(平塚市)と足柄座(南足柄市)の2座(戦後に復興)も加盟している。
[編集] 佐渡の人形芝居(文弥人形、説経人形、のろま人形)
新潟県佐渡市。保護団体名:佐渡人形芝居保存会(佐渡文弥人形振興会,新穂村人形保存会)。演目は「源氏烏帽子折」など。文弥節は古浄瑠璃の一つ。
[編集] 真桑人形浄瑠璃
岐阜県本巣市。物部神社で奉納上演される。保護団体名:真桑文楽保存会。演目は「蓮如上人一代記」など。上演会場の「真桑の人形舞台」は重要有形民俗文化財である。
[編集] 安乗の人形芝居
三重県志摩市。保護団体名:安乗人形芝居保存会。別名安乗文楽。安乗神社で奉納上演される。演目は「伊達娘恋緋鹿子」など。
[編集] 淡路人形浄瑠璃
兵庫県南あわじ市。保護団体名:財団法人淡路人形協会 (理事長は南あわじ市長)。常設館「淡路人形浄瑠璃館」を持つ。淡路島内の学校のクラブ活動・部活動としても盛んである。演目は「傾城阿波鳴門」など。
[編集] 阿波人形浄瑠璃
徳島県。保護団体名:財団法人阿波人形浄瑠璃振興会。振興会には2004年9月現在、人形座14団体、大夫部屋6団体、三味線師匠6団体が所属しており、阿波十郎兵衛屋敷では阿波十郎兵衛座が定期公演を行っている。県下の学校のクラブ活動・部活動としても盛んである。演目は「傾城阿波鳴門」など。人形師・天狗久の制作用具・製品等が重要有形民俗文化財に指定されている。
[編集] 山之口の文弥人形
宮崎県都城市。保護団体名:山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会。文弥節は古浄瑠璃の一つ。
[編集] 国選択無形民俗文化財である人形浄瑠璃
[編集] その他の人形浄瑠璃
[編集] 半原人形浄瑠璃
[編集] 脚注
- ^ 2006年現在、文楽以外には、兵庫県淡路島・長野県伊那谷地方・その他各地で独自の人形浄瑠璃が、祭礼時の伝統芸能等として伝えられている。
- ^ 時代物の内、奈良時代及び平安時代を舞台にしたものを特に「王朝物」、太平記の世界を描いたものを特に「太平記物」という。江戸期においては武家の事件をそのまま上演する事は検閲の対象となる恐れがあり、太平記の世界に仮託されて創作された作品も多い。
[編集] 参考文献
内山美樹子 「十世豊竹若大夫、晩年の奏演をめぐって」 2002年度『演劇研究センター紀要』I、早稲田大学 演劇博物館 演劇研究センター、2003年3月31日
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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