日向 (日蓮宗)
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基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
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聖地 |
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日向(にこう、建長5年(1253年) - 正和3年9月3日(1314年10月12日))は、日蓮の高弟の一人。佐渡公日向、また後には民部阿闍梨日向(みんぶあじゃりにこう)、安立院とも名乗った。現在の日蓮宗の宗史上においては、総本山身延山久遠寺第二世に列せられている。
安房国の尾金に生まれ、13才で日蓮に入門して出家得度してからは、折伏弘教のため日々各地に奔走した。弁舌に優れ、日蓮門下の論議第一と称された。 1276年、日蓮の使者として、日蓮の旧師・道善房の墓前に赴き、日蓮による旧師追悼のための著述『報恩抄』を朗読するという大役を務めた。 1280年、日蓮より本尊を授与された。同年、日蓮による法華経講義の記録『御講聞書』を著した。日蓮の本弟子六老僧の一人として、『宗祖御遷化記録』に「佐土公 日向」とその名が見える。
日蓮の滅後しばらくして、多くの日蓮の弟子たちが、日蓮の墓所輪番制を敷いたが、布教忙しく年に一度の身延入山はたいへんな負担になっていた。しかしその中にあって日向は、1285年、日興の呼びかけに応じて身延山久遠寺に復帰し、日興より学頭職に任ぜられた。しかし、新入門者や在家門徒には寛容であった日興は、高弟の門下たちに対すると、師匠である日蓮の教義に厳格な態度を貫き通し、感情的反発を受ける事も辞さない態度をとった。放逸な性格で自由奔放なやり方を好む日向は、年々対立を深めていった。
1289年、当時身延山久遠寺の大檀那、清和源氏・甲斐源氏武田流出自の波木井六郎実長公が鎌倉出自中に、なんの通告もなく日興が突然身延山久遠寺を下山する。 正宗系の批判のひとつに「神社参拝」があげられているが、三島大社の参拝は、大石寺大旦那であり北条系でもある南条氏の進めであり、南条氏自身、三島大社や浅間大社を氏神と奉じ(吾妻鏡に記載あり)社殿の造営や寄進などをしており、正宗系の創作と思われる。 1313年、身延山住職の地位を日進に譲り、上総国の藻原に隠居した。 翌年、62才で死去した。