晴れ時々たかじん
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晴れ時々たかじん | |
ジャンル | ワイドショー |
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放送時間 | 月~金曜日14:00~15:00(60分) |
作 | 朝日放送 |
出演 | やしきたかじん 新野新 |
放送国 | 日本 |
放送局 | 朝日放送 |
放送期間 | 1988年10月~1992年3月 |
-TV MAGAZINE- 晴れ時々たかじんは1988年10月から、1992年3月に放送されていた朝日放送(ABCテレビ)制作のやしきたかじん司会の昼のワイドショーである。放映時間は月~金曜の午後2時~午後3時である。
目次 |
[編集] 番組概要
従来のワイドショーに疑問を持っていたたかじんは、それまでのワイドショーでやっていた料理・占い・温泉めぐりなどを一切排除し、「月曜:政治経済 火曜:ミニドキュメント 水曜:テレビ大人相談室 木曜:対談 金曜:輝け花の金妻たち(レギュラーパネラーによる座談)」と自ら当時としては斬新な企画を提案する。これが現在の関西のワイドショーの礎になっている部分もある。
生放送にもかかわらず、放送禁止用語や名誉毀損ものの毒舌を連発する番組スタイルに衝撃を与え、物議を醸し出した。
この番組で、たかじんは特大パネルと指し棒とマジックを使った「パネル芸」を考案。以後、様々な番組で真似されてしまう程影響を及ぼした。
[編集] その他
番組当初視聴率は2%にも満たない悲惨な状況であった(正確には朝日放送のこの昼間の時間帯は「ワイドショー・プラスα」の打ち切り以降、このような状況が長いこと続いていた)。そのため、局長から番組の打ち切りの勧告を受けた。しかし、これにたかじんが発奮し、徐々に視聴率が伸び始め、結果的に最後の1年間のトータル平均が13%を超えるようになり、平日の昼の2時台では考えられない高視聴率を記録した。最高視聴率は20%の大台を超えることもあった。
この番組で、たかじんは関西での人気を不動のものとし、「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれるようになった。
本来関西ローカルであったが、前身番組からの流れで、広島ホームテレビ、九州朝日放送、名古屋テレビ(メ~テレ)などにもネットされた。また、北陸朝日放送では1991年10月の開局時からネットされている。特に広島での視聴率は関西に次いで高く、広島からの生放送も行ったことがあった。また、朝日放送が高校野球大阪大会を中継した場合も、これらネット局への裏送りが行われていた。
もともと番組を引き受けることには消極的であったが、箕面市内にある家を無理矢理買わされ、また、たかじん本人の生来の金遣いの粗さもあり、金銭的に苦しかったことと、決定的な理由は、朝日放送局長以下に上七軒で接待を受け、泥酔していたこともあり「テレビをあかんようにしたのはお前らちゃうんか。都合悪るなったらおれのところに頼むのは調子よすぎるちゃうんか」と説教したことである。(本人談)
しかし、番組の取り組み方は異常ともいえるくらいで、やる気のないスタッフを自宅マンションから投げ落とそうとしたくらいであった。晩年はやめたくて仕方がなく、レギュラー出演していた桂べかこ(現:南光)に自宅マンションに呼び出し、「俺のあとを継げるのはべかちゃんしかおらんねん」と一晩中懇願した。そのあと引き継いだ番組が「べかこの自遊時間」である。
なお、番組終了後の慰労パーティーでの(朝日新聞社からの天下りで来た)局長の挨拶が「なぜこんな番組が視聴率を取るのかわからない」の一言でおしまいだったという。それに激怒したたかじんは役人・官僚の天下り体質もあり以後朝日放送での仕事は死ぬまでしないと決め、現在に至る(たかじん本人が「たかじんのそこまで言って委員会」2006年11月26日放映回で発言。なお、その後も単発の特別番組には数回出演した)。これ以降、朝日放送の話題になると放送禁止用語を交えて罵倒するようになった。ただ、現社長・西村嘉郎との個人的な付き合いは続き、宮根誠司がフリーになったのも、たかじんが西村に直談判したのがきっかけだった。
ちなみに、それ以前にもたかじんと朝日放送とは軋轢があり、ABCラジオの生放送中に「養命酒がなんで効くねん。マジで吐きそうになった」と発言した(当時「必殺シリーズ」のスポンサーだった養命酒がかなり神経質だったため、後日たかじんは養命酒製造から始末書を書かされる)。局の警備員の対応の悪さに腹を立てラジオの生放送中に「(朝日放送は)アホから順番に偉くなる放送局」と発言し、当時の副社長を激怒させた事件があった(たかじんが副社長に「ここ(朝日)の警備員の教育はどうなってんねん、だからアホから順番に偉くなるんちゃうか」と発言し、副社長はたかじんを一生出入り禁止処分を下した。その後、たかじんが「朝日の事、ボロクソ言うたら」と発言した事で、副社長は徹底抗戦に入ろうとしたが、当時の社長が「そんなことしたらタレントがおらんようになる」と鶴の一声で結局お咎め無しになった)。
[編集] エピソード
1991年に長崎県島原市の普賢岳の大噴火を、たかじんが独自取材し、被害者の窮状・風評被害による雲仙旅館の窮状・国の怠慢・鐘ヶ江市長のコメントなどを1時間ぶっ通しで放送した。この放送は多方面で大きな話題となった(なお、この当時番組はは長崎県(長崎文化放送)では放送されていなかった。しかし、広島には放送されており、偶然広島に在住の鐘ヶ江市長の親戚が放送を観ていて、慌てて鐘ヶ江市長に電話を入れたという)。
[編集] オープニングテーマ曲
「晴れときどきTAKAJIN」 作詩・作曲:鹿紋太郎 歌:やしきたかじん このテーマ曲がこの番組の名物となる。 (*1990年5月に発売されたシングルCD「なめとんか」のカップリング曲として収録されているが、放送で流れている編曲とは異なる。ちなみに、CDの編曲は若草恵)
[編集] 主な出演者
[編集] スタッフなど
[編集] 構成作家
- 吉田清(故人)
- 古川嘉一郎
- 北野義則