朝鮮放送協会
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朝鮮放送協会(ちょうせんほうそうきょうかい)は日本統治時代の朝鮮でラジオ放送を実施していた社団法人。基幹局の京城中央放送局はJODKのコールサインで知られていた。
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[編集] 放送局所一覧(1945年8月現在)
- 京城中央放送局(呼出符号JODK)
- 所在地: 京畿道京城府西大門区貞洞町1-10
- 周波数: 第1放送 - 710kc(1927年2月16日開始)、第2放送 - 970kc(1933年4月26日開始)
- 釜山放送局(呼出符号JBAK)
- 所在地: 慶尚南道釜山府大庁町一丁目7
- 周波数: 第1放送 - 650kc(1935年9月21日開始)、第2放送 - 1030kc(1941年8月開始)
- 平壌放送局(呼出符号JBBK)
- 所在地: 平安南道平壌府梧野里130
- 周波数: 第1放送 - 820kc(1936年11月15日開始)、第2放送 - 1090kc(1936年11月15日開始)
- 清津放送局(呼出符号JBCK)
- 所在地: 咸鏡北道清津府目賀田町8-3
- 周波数: 第1放送 - 850kc(1937年6月5日開始)、第2放送 - 1100kc(1941年8月開始)
- 所在地: 咸鏡北道清津府目賀田町8-3
- 咸興放送局(呼出符号JBDK)
- 所在地: 咸鏡南道咸興府山手町一丁目79
- 周波数: 第1放送 - 780kc(1938年10月30日開始)、第2放送 - 1050kc(1939年4月開始)
- 裡里放送局(呼出符号JBFK)
- 所在地: 全羅北道益山郡裡里邑南中町86
- 周波数: 第1放送 - 570kc(1938年10月1日開始)、第2放送 - 1100kc(1942年4月開始)
- 大邱放送局(呼出符号JBGK)
- 所在地: 慶尚北道大邱府院垈洞1169
- 周波数: 第1放送 - 800kc(1940年10月30日開始)、第2放送 - 1070kc(1941年4月19日開始)
- 光州放送局(呼出符号JBHK)
- 所在地: 忠清南道光州府社町117-2
- 周波数: 第1放送 - 780kc(1942年3月21日開始)、第2放送 - 1040kc(1942年3月21日開始)
- 大田放送局(呼出符号JBIK)
- 所在地: 忠清南道大田府北町15
- 周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 880kc(1944年11月10日開始)
- 元山放送局(呼出符号JBJK)
- 所在地: 咸鏡南道元山府栄町15
- 周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 900kc(1943年11月10日開始)
- 海州放送局(呼出符号JBKK)
- 所在地: 黄海道海州府広石町
- 周波数: 第1放送 - 800kc(1943年8月開始)、第2放送 - 1080kc(1943年11月10日開始)
- 新義州放送局(呼出符号JBLK)
- 所在地: 平安北道新義州府常盤町九丁目10
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1943年8月開始)
- 春川放送局(呼出符号JBMK)
- 所在地: 江原道春川郡春川邑大和町106
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1944年12月20日開始)
- 木浦放送局(呼出符号JBNK)
- 所在地: 全羅南道木浦府陽洞86-1
- 周波数: 第1放送 - 1280kc(1942年11月1日開始)
- 馬山放送局(呼出符号JBOK)
- 所在地: 慶尚南道馬山府上南町74-2
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1943年4月30日開始)
- 1943年4月30日、補助放送所として開始、1944年1月、放送局に昇格
- 城津放送局(呼出符号JBPK)
- 所在地: 咸鏡北道城津府旭町460
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1943年11月開始)
- 清州放送局(呼出符号JBQK)
- 所在地: 忠清北道清州郡清州邑石橋町
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1945年6月16日開始)
- 江陵放送局(呼出符号JBRK)
- 所在地: 江原道江陵郡江陵邑校洞里
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1941年12月6日開始)
- 1941年12月6日、移動放送中継所として開始、1943年11月、放送局に昇格
- 開城補助放送所
- 所在地: 京畿道開城府池町59
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1942年10月開始)
- 長箭補助放送所
- 所在地: 江原道高城郡長箭邑長箭里258
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1944年3月開始)
- 瑞山補助放送所
- 所在地: 忠清南道瑞山郡瑞山邑東門里103
- 周波数: 第1放送 - 600kc(1945年3月開始)
- 鎮南浦補助放送所(未開所)
- 所在地: 平安南道鎮南浦府
- 周波数: 第1放送 - 600kc(予定)
- 1945年8月15日、太平洋戦争終結によって建設中断
[編集] 前史
日本のラジオ放送は1925年に東京、大阪、名古屋で開始され、1926年には社団法人日本放送協会が設立された。朝鮮総督府逓信局でも1924年2月にラジオ放送に関する調査研究に着手し、同年11月には京城(現在のソウル)の逓信局施設から日本語による実験放送を開始した(呼出符号J8AA)。また、同年12月、朝鮮語による新聞を発行していた朝鮮日報社でも、朝鮮語によるラジオ放送の実験を公開した。さらに、1925年6月になると逓信局でも朝鮮語による実験放送を開始し、日本人・朝鮮人両者からラジオ放送開始への期待が高まった。
[編集] 創設
1926年2月、京城放送局創立準備委員会が社団法人設立と放送用私設無線電話施設許可を申請し、同年11月には社団法人京城放送局設立が、同年12月には放送用私設無線電話施設が許可された。京城放送局の呼出符号はJODKで、これは「日本で4番目に許可された放送局」という意味をもつ。京城放送局は1927年1月に試験放送を開始、同年2月16日に本放送を開始した。放送対象区域は朝鮮一帯、波長345m(周波数870kc)、出力1kW、放送編成は日本語5、朝鮮語5の比率による交叉放送であった。ところが、出力が小さいため受信状態が悪く、また、聴取料が月2円と高額であったことなどから、聴取契約数は思うように伸びなかった。その後、1927年7月には放送編成を日本語6、朝鮮語4の比率に変更、同年10月には聴取料を月1円に引き下げ、さらに1929年3月には日本本土からの番組中継を増加させ、放送編成比率を日本語7、朝鮮語3に変更したが、開局から4年を経過しても聴取契約数は約1万1千に止まっていた。
[編集] 朝鮮語による第2放送
社団法人京城放送局では経営不振を打開するために、1931年2月、朝鮮語専用の第2放送の実施計画に着手し、途中、朝鮮総督府と日本放送協会の経済的・技術的支援を受け、1932年4月には経営母体も社団法人朝鮮放送協会に改組(京城放送局は京城中央放送局に改称)しながら、第1放送(日本語)の増力と第2放送の新設を果たした。第2放送の開始は1933年4月、日本語と朝鮮語を分離した放送は日本人・朝鮮人の双方に好評で、同年末の聴取契約数は3万2千に達したが、主に日本人世帯の聴取契約数が増加した。当時、ラジオ放送を聴くためには月額1円というやや高額な聴取料が必要(1938年4月、75銭に引き下げ)であり、貧困層の多い朝鮮人世帯にはなかなか普及しなかったのである。加えて、あまり送信出力が大きくない京城中央放送局1局からの放送を朝鮮全土に到達させるのは、地形的にも困難であった(1937年4月、第2放送が50kWに増力し全土で聴取可能に)。しかし、ラジオは個人の家庭以外にも、食堂、喫茶店、農村の集会所など人がよく集まるところに設置されており、聴取者数は決して少なくなかった。1920年代の朝鮮語新聞とともにこのラジオ放送が近代朝鮮語の確立に与えた影響は小さくないといわれる。ところが、朝鮮語による放送は朝鮮での日本語の普及、皇民化を妨げるという主張が後を絶たず、朝鮮語放送廃止論がしばしば台頭した。日中戦争が長期化し、さらに太平洋戦争が始まると、内地同様に朝鮮の放送も戦時色が強くなり、第2放送で人気のあった歌謡番組も戦意高揚歌ばかりとなった。1942年4月、放送電波管制のため京城中央放送局からの第2放送は一時休止されたが、地方局にも第2放送設備を新設して、1943年11月に再開された。
[編集] 終末
南側は、1945年8月の太平洋戦争終結後も京城中央放送局は日本軍によって警備され、朝鮮放送協会による日本語放送(第一放送)も継続されていたが、9月、京城に進駐した米軍によって日本軍は武装解除され、同時に日本語放送も廃止された(10月、日本人職員解雇)。1948年6月、米軍政当局から朝鮮放送協会に放送事業が移管され、同年8月、大韓民国成立とともに朝鮮放送協会は大韓放送協会と改称した。その後、数次の変遷を経て、現在の韓国放送公社(KBS)へとつながっている。
一方の北側では、1945年8月26日に 京城中央放送局からの中継放送を廃止する。その後、社会主義色の高まりとともに1945年10月14日に「金日成将軍祖国凱旋歓迎平壌市民大会」を中継放送する。(北朝鮮の歴史では金日成は日本軍に勝ち中国から凱旋帰国したことになっており、その中継放送とされているが、実際は隠れていたソ連(現在のロシア)からの帰国だった。)その後、数次の変遷を経て、現在の朝鮮中央放送へとつながっている。
[編集] 沿革
- 1924年(大正13年)2月: 朝鮮総督府逓信局、放送用無線電話に関する調査研究に着手。
- 1924年(大正13年)9月6日: 朝鮮総督府逓信局、放送用私設無線電話規則を発布、施行。
- 1924年(大正13年)11月29日: 朝鮮総督府逓信局、実験放送開始。
- 1925年(大正14年)2月: 朝鮮総督府逓信局、公開実験で大阪からの電波(大阪朝日新聞社の実験放送)を受信。
- 1925年(大正14年)6月21日: 朝鮮総督府の実験放送、毎週4日間に(朝鮮語による放送も開始)。
- 1926年(大正15年)2月15日: 京城放送局創立準備委員会、放送用私設無線電話施設の設置を出願。
- 1926年(大正15年)11月30日: 社団法人京城放送局、設立許可。
- 1926年(大正15年)12月9日: 朝鮮総督府、京城放送局に放送用私設無線電話施設を許可(呼出符号:JODK)。
- 1926年(大正15年)12月9日: 京城放送局、聴取規約制定(聴取料を月額2円に決定)。
- 1926年(大正15年)12月21日: 社団法人京城放送局、設立登記。
- 1927年(昭和2年)1月20日: 京城放送局、試験放送開始。
- 1927年(昭和2年)2月16日: 京城放送局、本放送開始(出力1kW、放送編成比率は日本語5、朝鮮語5)。
- 1927年(昭和2年)6月25日: 京城放送局、日本からの放送波による入中継放送を初めて実施。
- 1927年(昭和2年)7月4日: 朝鮮総督府、京城放送局からの財政補助要請を拒絶。
- 1927年(昭和2年)7月: 京城放送局、放送編成比率を日本語6、朝鮮語4に変更。
- 1927年(昭和2年)10月1日: 京城放送局、聴取料を月額1円に引き下げ。
- 1928年(昭和3年)4月13日: JODK専属管弦楽団初演(指揮:洪蘭坡)。
- 1928年(昭和3年)11月6日: 「李王職雅楽の夕」を初めて日本全土に出中継。
- 1929年(昭和4年)3月1日: 京城放送局、放送編成比率を日本語7、朝鮮語3に変更(日本からの番組中継の増加による)。
- 1931年(昭和6年)2月: 京城放送局、二重放送実施計画に着手。
- 1932年(昭和7年)3月8日: 社団法人京城放送局、社団法人朝鮮放送協会に改称。
- 1932年(昭和7年)4月7日: 社団法人京城放送局、社団法人朝鮮放送協会に改組。
- 1932年(昭和7年)9月: 朝鮮放送協会、日本本土の全国ニュースの中継を中止(朝鮮総督府逓信局の監督・検閲の都合による)。
- 1932年(昭和7年)11月: 朝鮮放送協会、初めて朝鮮語アナウンサーを募集。
- 1932年(昭和7年)12月: 京城放送局貞洞演奏所・延禧放送所、建物竣工。
- 1933年(昭和8年)4月26日: 京城放送局、二重放送開始(第1放送:日本語、第2放送:朝鮮語、出力は各10kW)。
- 1933年(昭和8年)4月: 朝鮮総督府逓信局、放送監督係を新設(京城放送局内に放送遮断機を設置)。
- 1933年(昭和8年)11月13日: 京城放送局、「朝鮮語講座」放送開始。
- 1934年(昭和9年)1月8日: 京城放送局、日本全土向けに定期出中継を開始。
- 1934年(昭和9年)7月31日: 朝鮮放送協会、放送審議会を設置。
- 1935年(昭和10年)9月17日: 京城放送局、京城中央放送局と改称。
- 1935年(昭和10年)9月21日: 釜山放送局(JBAK)、放送開始(第1放送)。
- 1936年(昭和11年)11月15日: 平壌放送局(JBBK)、放送開始(二重放送)。
- 1937年(昭和12年)4月17日: 京城中央放送局、第2放送の出力を50kWに増力。
- 1937年(昭和12年)6月5日: 清津放送局(JBCK)、放送開始(第1放送)。
- 1937年(昭和12年)7月11日: 朝鮮総督府、新聞・放送に対し国民精神総動員計画実践への協力を要請。
- 1937年(昭和12年)11月3日: 第2放送で「宮城遙拝の時間」放送開始。
- 1938年(昭和13年)4月1日: 第2放送で「国語(日本語)講座」放送開始(朝鮮総督府の「小学校規程」改正により、小学校での教授用語が日本語に限定)。
- 1938年(昭和13年)4月1日: 朝鮮放送協会、聴取料を月額1円から75銭に引き下げ。
- 1938年(昭和13年)10月1日: 裡里放送局(JBFK)、放送開始(第1放送)。
- 1938年(昭和13年)10月30日: 咸興放送局(JBDK)、放送開始(第1放送)。
- 1939年(昭和14年)4月10日: 朝鮮放送協会、東亜放送協議会に加盟。
- 1939年(昭和14年)4月19日: 京城中央放送局、大邱・光州に出張所を設置。
- 1939年(昭和14年)8月: 朝鮮放送協会第2放送課長辞任(朝鮮語ニュースにおける日本語固有名詞使用の指示に不服)。
- 1939年(昭和14年)12月12日: 咸興放送局、第2放送開始。
- 1940年(昭和15年)6月3日: 朝鮮総督府、「有線放送調査委員会規程」を制定・施行、有線放送の導入について検討。
- 1941年(昭和16年)4月19日: 大邱放送局(JBGK)、放送開始(二重放送)。
- 1941年(昭和16年)8月: 釜山・清津両放送局、第2放送開始。
- 1941年(昭和16年)12月6日: 江陵補助放送所、放送開始(第1放送)。放送電波管制のための措置。
- 1941年(昭和16年)12月8日: 太平洋戦争開戦を報道。
- 1942年(昭和17年)2月15日: 内閣情報局、戦時下国内放送番組編成基本政策方針を朝鮮放送協会に伝達。
- 1942年(昭和17年)2月20日: 馬山補助放送所、放送開始(第1放送)。
- 1942年(昭和17年)2月: 朝鮮放送協会、戦時特別編成方針を樹立。
- 1942年(昭和17年)3月21日: 光州放送局(JBHK)、放送開始(二重放送)。
- 1942年(昭和17年)4月27日: 京城中央放送局、放送電波管制のため第2放送休止、第1放送で日・朝両語による交叉放送実施。
- 1942年(昭和17年)4月: 裡里放送局、第2放送開始。
- 1942年(昭和17年)8月29日: アメリカの声(VOA)、朝鮮語放送開始。
- 1942年(昭和17年)10月: 開城補助放送所、放送開始(第1放送)。
- 1942年(昭和17年)11月1日: 木浦補助放送所、放送開始(第1放送)。
- 1942年(昭和17年)12月7日: 京城中央放送局で短波放送(VOA朝鮮語放送)聴取事件発生。
- 1943年(昭和18年)4月1日: 馬山補助放送所、放送開始(第1放送)。
- 1943年(昭和18年)7月15日: 大田放送局(JBIK)、放送開始(第1放送)。
- 1943年(昭和18年)7月17日: 元山放送局(JBJK)、放送開始(第1放送)。
- 1943年(昭和18年)8月1日: 海州放送局(JBKK)・新義州放送局(JBLK)、放送開始(第1放送)。
- 1943年(昭和18年)11月1日: 城津放送局(JBPK)、放送開始(第1放送)。
- 1943年(昭和18年)11月10日: 京城中央放送局、第2放送再開。
- 1943年(昭和18年)11月10日: 元山・海州両放送局、第2放送開始。
- 1943年(昭和18年)11月: 江陵補助放送所、放送局(JBRK)に昇格。
- 1943年(昭和18年)11月: 短波放送聴取事件、公判結審(実刑判決10名)。
- 1944年(昭和19年)1月1日: 馬山補助放送所、放送局(JBOK)に昇格。
- 1944年(昭和19年)3月: 長箭補助放送所、放送開始(第1放送)。
- 1944年(昭和19年)11月10日: 大田放送局、第2放送開始。
- 1944年(昭和19年)12月20日: 春川放送局(JBMK)、放送開始(第1放送)。
- 1945年(昭和20年)1月23日: 木浦補助放送所、放送局(JBNK)に昇格。
- 1945年(昭和20年)3月: 瑞山補助放送所、放送開始(第1放送)。
- 1945年(昭和20年)6月16日: 清州放送局(JBQK)、放送開始(第1放送)。
- 1945年(昭和20年)8月13日: 清津放送局、ソ連軍の攻撃を受け、日本軍の衛兵により爆破。局員と家族の一部が自決。
- 1945年(昭和20年)8月15日: 終戦の詔勅を中継放送。
- 1945年(昭和20年)8月23日: 電波管制終了。朝鮮放送協会、傘下の放送局に個別の周波数を割り当て。
- 1945年(昭和20年)8月26日: 北緯38度線以北の放送専用線が途絶。
- 1945年(昭和20年)9月9日: アメリカ軍、日本軍を武装解除し、京城中央放送局を警備。
- 1945年(昭和20年)9月9日: 朝鮮放送協会、日本語による第1放送廃止、朝鮮語による第2放送を第1放送に変更。
- 1945年(昭和20年)9月15日: 朝鮮放送協会、職員総会を開催、朝鮮人から役員を選出。
- 1945年(昭和20年)10月2日: 朝鮮放送協会、日本人職員を全員解雇。
- 1947年(昭和22年)9月3日: 国際無線通信会議開催、朝鮮に呼出符号「HL」を割り当て。
- 1947年(昭和22年)10月1日: 朝鮮放送協会の各放送局、新呼出符号を使用開始。
- ソウルHLKA、釜山HLKB、裡里HLKF、大邱HLKG、光州HLKH、大田HLKI、春川HLKM、木浦HLKN、馬山HLKO、清州HLKQ、江陵HLKR
- 1948年(昭和23年)8月6日: 朝鮮放送協会、大韓放送協会に改称。