木南車輌製造
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木南車輛製造株式会社(きなみしゃりょうせいぞう)はかつて日本に存在した鉄道車両メーカーで、大阪府堺市に工場を置き、小規模ながら地方私鉄向けの電車、路面電車を中心に、木南スタイルと呼ばれるデザイン性に優れた車両を製作していたほか、戦時中は軍用の上陸用舟艇等の製作も行っていた。
社章は、家紋の「入り山」の下に、創業者・木南吉三の「吉」を配していた。
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[編集] 沿革
木南車輛製造の沿革は、1933年から1949年まで存在した木南車輛製造株式会社と、1951年から1954年まで存在した新木南車輛株式会社の二つに分かれるが、新木南車輛は木南車輛製造の再興であることから、同一の沿革のもとで紹介する。
[編集] 設立
木南車輛製造は、1933年に「木南工業所」という名称で、南海高野線堺東駅にあった堺東検車区の一隅で創業した。創業者の木南吉三は小学校卒業後に京阪電気鉄道に入社、独学でドイツ語と電気関係や車両製造に関する技術を習得、その後高野山電気鉄道に転職して日本初の本格的電力回生ブレーキ搭載車両として知られる高野山電気鉄道101形電車の設計や高野山ケーブル(後の南海鋼索線)の設計に携わった後に独立、1938年には当時南海に所属する手動扉車にドアエンジンを取り付ける工事など、高野山電気鉄道を通じて関係が深かった南海鉄道の車両に関する仕事を請け負う中で実力を培い、同年には渥美電気鉄道(現在の豊橋鉄道渥美線)向け電気機関車を受注し、南海1201形電車の新造や簡易半鋼車の改造に携わるなど、本格的な車両メーカーへの道を歩み始めた。
[編集] 発展
社業が発展するにつれ、工場も車庫の一隅では手狭になってきたことから、新規に土地を購入して移転することとなった。1939年に現在の南海本線堺駅北西側にあった紡績工場跡(現在の堺市堺区戎島)に5,000坪の土地を購入して車両工場を新築、同時に大阪市西淀川区野里に鋳鋼工場を建設して台車(車輪・車軸を除く)や台枠の製造を開始するとともに、社名を木南車輛製造株式会社と改称した。
この頃から前年の国家総動員法施行などの戦時体制の強化に伴い、軍需生産に資源を集中するために鉄鋼をはじめとした資材の供給統制が強化されたことによって、大手車両メーカーが鉄道省や南満州鉄道、朝鮮総督府鉄道局などの大口事業者への受注で手一杯となり、地方私鉄や路面電車事業者への需要に応えることが困難になってきた。このような状況の下、木南車輛製造はこれらの事業者の需要を満たし、急速に社業を成長させていった。同時に、戦時体制の中でも、張り上げ屋根で前面が流線型ないしは半流線型、天地寸法の大きく明るい二段窓で代表される、いわゆる木南スタイルと呼ばれる一連の車両群が登場したが、これは社業の発展とともに多く採用された大学卒の車両技術者がその実力を傾けて設計したものである。
その後、石炭増産の国策に応じて、鉄道省向けの石炭車を納入するようになり、鉄道省も同社の納入先となった。太平洋戦争に突入すると同社も軍需工場に指定され、三宝(現在の堺市堺区内)に工場を新築、上陸用舟艇や特攻用モーターボートなどの製造に携わるようになった。このように急速に膨張したことから従業員数が二千人を突破したが、ついには人手不足のために堺刑務所から600人の受刑者を臨時の従業員として徴集するまでになってしまった。
[編集] 暗転
このようにして急速に発展した木南車輛製造であるが、太平洋戦争末期の戦火は同社の上にも容赦なく襲いかかってきた。1945年7月9,10日の堺空襲で主力工場である戎島工場が全壊、工場内で製造・改造中の車両が焼失しただけでなく、敷地内には不発弾がごろごろ転がる有様だった。そのために焼け残った三宝工場を中心に事業を再建し、従前のように地方私鉄や路面電車をはじめ、国鉄向けの貨車の製造に携わったほか、戦災復旧客車の復旧工事に携わった。しかし、悪性のインフレと国鉄向け貨車の製造代金の納入が滞ったことによって経営が悪化、そこに来て1949年のドッジ・ラインによる緊縮財政によって国からの支払いが凍結され、これが同社の死命を制することになった。代金未納による資金不足から、給与の遅配とそれに伴って発生した激しい労働争議に悩まされるようになり、そのさなかに起きた台風被害によって今度は三宝工場が全壊、事業の継続をあきらめた木南吉三は同年会社を解散、木南車輛製造としての歴史を閉じることとなった。
[編集] 短い再興
1951年(資料によっては1952年)に、木南車輛製造の取締役であった入江寅市と残った技術者が中心になって、戎島工場の跡地に新木南車輛株式会社として再興した。このとき入江は木南吉三に再び経営者になってもらうよう要請したが、当時病院(現在の浜寺中央病院)と薬局を経営していた木南はこれを断っている。新木南車輛は国鉄向けの貨車と熊本市電向けの電車を納入したが、経営ははかばかしくなく、1954年に倒産してしまい、その後二度と再興することはなかった。
[編集] 主な製造車両
[編集] 鉄道
- 武蔵野鉄道デハ5570形電車
- 南海1201形電車
- 南海の簡易半鋼車
- 富岩鉄道ロコ1形電気機関車
- 南武鉄道モハ500形
- 南武鉄道クハ210形
- 青梅電気鉄道モハ500形
- 青梅電気鉄道クハ700形
- 北陸鉄道モハ1200形電車
- 北陸鉄道モハ1800形電車
- 北陸鉄道ED20形電気機関車
- 遠州鉄道モハ11形電車
- 奈良電気鉄道クハボ650形電車
- 西鉄100形電車 (鉄道)
[編集] 軌道
- 東京都交通局700形電車
- 横浜市交通局1200形電車
- 横浜市交通局1400形電車
- 名古屋市交通局1400形電車
- 名古屋市交通局900形電車
- 名古屋市交通局2600形電車
- 名古屋市交通局3000形電車 (軌道)
- 名古屋市交通局2700形電車
- 大阪市交通局1651形電車
- 神戸市交通局900形電車
- 広島電鉄650形電車 - 1942年製
- 西鉄200形電車 (軌道)
- 熊本市交通局1080形電車
- 長崎電気軌道600形電車
[編集] エピソード
- いわゆる、「木南スタイル」といわれる車両群が多く登場したのは、各社局から車両担当者が「打ち合わせ」と称して同社を訪れているが、経済統制の厳しい当時では、担当者が遠距離から出張して大阪泊で食事つきの旅費の支給を受けることと、木南持ちの接待で飲食することが目的となってしまい、ほとんどの事業者が木南車輛製造に設計・製造を一任した、と木南吉三自身の談話にある。
- 木南車輛製造が急速に業績を伸ばしたのは、技術力もさることながら大手車両メーカーより制作費が一桁安かったためである。無名だったことと制作費が安かったことから、「中古品の寄せ集めで電車を造っている」「実際は下請けが製造している」などと陰口を叩かれたこともあった。
- 車軸と車輪についても自社で鋳鋼工場を持っていたことから製造は可能であったが、特許の関係で住友金属工業の製品を買わざるを得なかった。
- 台車については当時一般的なボールドウィン系のイコライザー式台車やブリル76E/77E台車の模倣品などを自社で製造したが、鍛造技術を持たなかったため、例えば南海鉄道に供給したKN-16の場合、本来ならば鋼材の「目」の揃いによる破断を避けて鍛造で製造するイコライザーを圧延鋼材の切り出しで製造してあったとの証言が残されており、その品質に問題があったことが示唆されている。
[編集] 創業者・木南吉三
1904年現在の大阪府寝屋川市萱島生、小学校卒業後すぐに京阪電気鉄道に入社した。1928年高野山電気鉄道に車両技術者として移籍、日本初の電力回生ブレーキの開発に携わりデ101形・デニ501形電車を完成させる。さらに鋼索線のケーブルカーの製作にも携わる。1933年独立し木南工業所(→木南車輌製造)を興す。1949年木南車輌製造解散後は浜寺中央病院[1]の理事長としてその経営に専念した。1983年没。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『鉄道ピクトリアル』1996年1月号 No.616 特集『車両メーカー』 電気車研究会
- 『関西の鉄道』No.52 『木南吉三氏の「思い出話」』 2007年1月 関西鉄道研究会