国鉄70系客車
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70系客車(70けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道が製造した客車の系列の一つである。
太平洋戦争末期、米軍による日本本土への空襲によって被災した鉄道車両を戦後に復旧して製造したもので、戦災復旧車(せんさいふっきゅうしゃ)とも呼ばれる。
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[編集] 製造の背景
戦後1年が経過した1946年(昭和21年)当時、客車の総保有数は数字の上では戦前とほぼ同数の約11,000両を保っていた。しかし、この中には、戦災に遭って破損したまま廃車手続きがなされていない車両が約2,200両、故障・事故によって使用不能となっている車両が約1,400両、進駐軍に接収された車両が約1,000両に及び、実働可能な車両は総保有数の約7割にとどまっていた。さらに、終戦後の外地からの引き揚げ、食料買出しなどのため、旅客輸送需要は戦時中に比べて極端に増大した。これらの事情が重なって、客車の著しい不足を生じた。このため、貨車に乗客を乗せて輸送することも実際に行われた。しかしこれは安全面・サービス面から非常に好ましからざる事態であり、大量の客車の早急な新製が強く望まれた。だが当時の混乱期は資材・労働力不足と技術低下により客車の製造能力は著しく下がっており、普通に客車を新製するだけでは客車不足に対応することは非常に困難であった。
そこで、戦災を受けた客車・電車の台車・台枠・鋼体を再利用して車体のみを新製し、旅客輸送の用に供することが考えられた。この手法により製造された車両を戦災復旧車という。区別のため形式は70番台の番号を付されていたことから便宜上70系客車とも呼ばれる。
[編集] 設計思想と構造
70系客車はあくまで客車不足を補うための一時しのぎと位置づけられ、最小限の資材で最大限の収容力を確保することを念頭において設計された。そのため、従来の客車に比べて次のような特徴を有していた。
- 側面扉は片側3ヶ所に設置し、デッキは設けない。
- 座席は木製のロングシートとし、吊り革・手すりも設ける。
- 内装は極力簡素化。座席は布が張られておらず、照明は裸電球。
- 洗面所なし(便所はあり)。
- 暖房装置なし。
基本的に、長距離運行を前提とする従来の客車の設計思想ではなく、大都市圏を運行する通勤形電車の設計思想を取り入れて製造されたものといえる。
標準的な設計図面も作成されたが、破損の程度の少ない車両についてはこの図面に従わず、従来の車両の車体を修理改造して扉を増設しただけのものもあった。また、通勤形電車を復旧改造したものは、原形とほとんど同じ形状のものもあった。そのため同じ形式でも外観は車両1両1両によって大きく異なっていた。
[編集] 製造
1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)の間に製造された。全国の国鉄工場、鉄道車両メーカーだけでなく、終戦により軍事用の需要が途絶えていた造船所・航空機メーカーなども製造に加わった。
[編集] 形式
車体長さ、台車によってオハ70形・オハ71形・オハ77形の3種類に分かれる。ただし、先述のように、外観はそれぞれ異なる。
[編集] 三等車
[編集] オハ70形
車体長17mのグループに付された形式である。客車ではオハ31系、電車ではモハ30系・モハ50系(のちのクモハ11系)の被災車がこの形式になっている。113両が製造された(番号は63番が欠番で114まで)。
[編集] オハ71形
車体長20mのグループに付された形式である。客車ではスハ32系・オハ35系、電車ではモハ40系・モハ51系・モハ60系の被災車がこの形式になっている。通常の図面に従って製造された0番台132両(番号は132が欠番で133まで)と、破損の少ない車両を日本車輌で修理した500番台22両があった。500番台は従来の客車の形状を残しつつ、中間に扉を2つ増設したもので、側面4扉であった。
[編集] オハフ71形
車体長20mの電車を復旧して製造された緩急車。2両が製造された。電車時代の車体をそのまま利用し、運転台を車掌室とした。ちなみに、メーカーは東洋レーヨン(現・東レ)である。
[編集] オハ77形
食堂車・寝台車など、車体長20mで3軸ボギー台車をもつグループを復旧した車両に付された形式である。29両が製造された(番号は24が欠番で30まで)。1953年(昭和28年)に形式をオハ78形と改めた。
[編集] 荷物車
[編集] オニ70形
[編集] スニ71形
[編集] マニ72形
[編集] マニ77形
[編集] 郵便・荷物合造車
[編集] オユニ70形
[編集] 郵便車
[編集] スユ71形
[編集] 試験車
[編集] スヤ71形
1949年にクハ55を復旧して製造した振動測定用の試験車。車体は張上屋根で、屋根上には2列のガーランドベンチレーターが並んでいる。ノーシル・ノーヘッダーで、客用扉は全て埋められていて、一部に窓が新設された。台車はTR23を履いているが、いろいろな台車に入れ替えてその振動状態を比較し測定ができる構造になっている。また車内床下の台車付近に観測用窓があり、走行中における台車の様子を観察することができる。晩年は特定の試験用ではなく、必要に応じて各種試験機器を積み込み使用されていたと思われる。1971年廃車。
[編集] 製造後
最初に製造された車両が1946年12月に東京駅で展示されたのち、続々と製造され、全国各地に配置され使用された。しかし、あくまでも戦後の混乱期の一時しのぎとして製造された車両であり、極めて少ない資材と低い生産能力で粗製濫造されたため従来の客車に比べて接客設備が著しく劣悪であり、老朽化した木造客車に対してさえ見劣りしていた。このため、旅客輸送需要が落ち着き客車の製造能力が回復して需給が安定してきた1950年(昭和25年)頃から順次旅客輸送の用途から外され、当時著しく不足していた荷物車・郵便車の代用として使われるようになった。そして1954年(昭和29年)までにすべて正規の荷物車に改造された。オハ71形500番台のみは郵便荷物合造車オハユニ71形に改造され、接客設備を従来の客車と同等のものに整えた上で引き続き旅客輸送に使用された。
1960年代に入ると荷物車・郵便車も需給が安定してきたことから、戦災復旧車は救援車・配給車などの事業用車に改造されていった。事業用車に改造されなかったものは1969年(昭和44年)までにすべて廃車され、この時点で営業用の戦災復旧車は消滅した。事業用車に改造されたものについては、国鉄の車両基地の統廃合が進められる1985年(昭和60年)頃まで一部が残っていた。
[編集] 車体長17mのグループからの改造車
[編集] スニ73形
[編集] スニ75形
[編集] オエ70形
[編集] 車体長20m・2軸ボギー台車のグループからの改造車
[編集] マニ74形
[編集] オハユニ71形
[編集] スユ72形
[編集] オユニ71形
[編集] マニ76形
[編集] スユニ72形
[編集] スエ71形
[編集] 車体長20m・3軸ボギー台車のグループからの改造車
[編集] マユニ78形
[編集] スエ78形
[編集] 現状
スエ78 15が、2006年現在も東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎車両センターに車籍を残している。同車は、戦災復旧客車最後の1両で、国鉄最末期において3軸ボギー台車を装備した本線走行可能な唯一(後にマイテ49 2が車籍復帰したため「唯一」ではなくなったが)の一般用客車であったことから、保存運転用に引き継がれたものである。JR発足直後は頻繁に使用されていたが、近年は全く使用されず、高崎車両センターに留置されたままとなっている。
このほか、北海道小樽市の小樽交通記念館にスエ78 5が静態保存されている。
[編集] 外部リンク
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)・JRの客車 |
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木造ボギー客車 |
9500系・12000系・22000系・28400系 |
鋼製一般形客車 |
オハ31系・スハ32系・オハ35系・70系・マロネ40形・60系・スハ43系・10系・50系 |
新系列客車 |
20系・12系・14系・24系・E26系 |
その他 |
マニ30形・ナハ29000形・ハテ8000形・オハフ17形 |
事業用車/試験車 |
オヤ31形・マヤ34形・マヤ50形 |
車種別 |
皇室用・一等寝台車・二等寝台車・三等寝台車・一等車・特別二等車・二等車・三等車・展望車・病客車 A寝台車・B寝台車・グリーン車・普通車・食堂車・郵便車・荷物車 |
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