村上正邦
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村上 正邦(むらかみ まさくに、1932年8月21日 - )は、日本の政治家。元参議院議員(4期)。福岡県田川郡添田町出身。
[編集] 概要
1932年、福岡県嘉穂郡に生まれる。1956年、拓殖大学政経学部卒業後、東洋紡を経て、生長の家本部に職員として入る。1974年の参議院議員選挙では、生長の家の組織票をバックに、全国区から自由民主党公認で出馬するも次々点で惜敗。玉置和郎参議院議員秘書を経て、1980年に参議院議員に初当選。以後4期当選。生長の家政治連合、神道政治連盟など、宗教票の取りまとめを得意とする。また、労働族議員でもある。
1992年、宮沢内閣改造内閣で労働大臣として初入閣。1995年には参議院自民党幹事長に就任する。1998年、参議院選挙を取り仕切り、このとき野中広務と公認問題をめぐり対立。選挙で自民党は惨敗し、参院幹事長を辞任。青木幹雄が後を継ぐ。
参議院渡辺派会長を経て、1999年3月に志帥会旗揚げで、同派最高顧問の中曽根康弘元首相の後押しもあり、初代会長を務める。同年、派閥会長の職を退いて自民党参議院議員会長に就任し、「参議院の天皇」「参議院の尊師」「村上天皇」との異名をとるまでの影響力を発揮する。当時加藤紘一嫌いを公言していた村上は、2000年4月、小渕首相の危篤の際には、加藤を除外する形で五人組によって森喜朗を後継に担ぎ出した。
2001年2月、KSD事件で賄賂を受け取ったと報道される。2月28日に証人喚問された際、訴追の恐れを理由にいくつかの質問に対して証言拒否をした。世間の混乱を招いたとして、参院議員会長辞任後、自民党を離党し議員辞職。3月1日に受託収賄の容疑で逮捕。2003年5月20日、東京地裁で懲役2年2ヶ月、追徴金約7280万円の実刑判決を受ける。2005年12月19日、東京高裁でも一審判決と同じく懲役2年2ヶ月、追徴金約7280万円の実刑判決を受ける。株式会社ハリカの最高顧問を歴任。
2005年の郵政国会の際、参議院本会議で反対票が上回った理由に村上の影響力があったとされる。
[編集] 関連項目
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