東京電燈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京電燈株式会社(とうきょうでんとう)は、かつて存在した企業の一つ。日本初の電力会社である。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 創始
1883年(明治16年)2月15日、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶の6人からなる発起人が国から会社の設立許可を受ける。富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められたものだった。
1886年(明治19年)7月5日に企業活動を開始し、1887年(明治20年)11月には東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始する。この年の末には、火力発電所を東京5箇所に設置する工事を始めた。1893年(明治26年)には200kWの大出力発電所である浅草発電所の建設を始め、3年後に完成させた。
この時、浅草発電所において東京電燈はドイツのアルゲマイネ(AEG)社製発電機を購入して使用したが、これは交流50Hzによる電気を供給するものであった。ほぼ同時期、関西の大阪電燈がアメリカゼネラル・エレクトリック製の交流60Hz供給発電機を採用したが、これが現在まで続く日本の東西で商用電源周波数が異なる原因となっている。
[編集] 鉄道事業
その後、品川電燈・深川電燈など関東に新しい電力会社が続々設立されるようになる。それらの中には、鉄道会社が副業として行っていたものや、その逆で余剰電力を用いて電気鉄道事業を行っていた電力会社もあった。なお、東京電燈も大正から昭和にかけての一時期、前橋電気軌道(利根発電合併による)・利根軌道・吾妻軌道(東京電力合併による)・江之島電気鉄道(現在の江ノ電、横浜電気合併による)などを買収し、直接経営を行っていたことがある。大口の電力需要を持つ電気鉄道会社は、電力会社にとっても経営安定化の面などで魅力的なものだった。しかし東京電燈の場合は、電力事業へ専念しようという考えから、後には全ての路線を東武鉄道などに譲り渡した。
[編集] 競争と買収・統合
明治時代から大正末期になると、東京鉄道・利根発電・鬼怒川水力電気・桂川電力・江戸川電気・猪苗代水力電気など関東における電力会社が続々誕生するようになり、競争状態になった。特に東京電燈と、東京市電気局と協定を結んでいた鬼怒川水力電気、桂川電力から受電契約を結んで設立された日本電燈の3社による競争は熾烈になり、過当なダンピングが行われるまでに至った。この競争は1917年(大正6年)に協定が結ばれたことで終結し、東京電燈はその後日本電燈を買収した。
大正末期には地方でも電力会社の統合が進み、東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の5社が五大電力会社と呼ばれるようになった。しかし東京電燈は、1923年(大正12年)に関東大震災で甚大な被害を受けた。だが復興は急ピッチで進み、翌年2月には8割以上の復旧をみた。また、震災後急増した電力需要に対応するため、隅田川沿いに千住火力発電所(4本のお化け煙突で有名)の建設も開始し、1929年(昭和4年)には50000kWの供給力を持つ大型発電所となった。この間、1927年(昭和2年)には東京電力(松永安左エ門の持つ東邦電力の子会社)と合併した。
[編集] 戦時体制
そして満州事変・五・一五事件・二・二六事件・日中戦争と軍色が強くなるにつれ、電力事業の国家による統制が望まれるようになった。1938年(昭和13年)には「国家総動員法」とほぼ同時に「電力管理法」・「日本発送電株式会社法」・「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」・「電気事業法」が制定され、1939年(昭和14年)にはそれに基づき国策企業の日本発送電株式会社が設立、同年8月には「配電統制令」が発布され、東京電燈を始めとした電力会社は日本発送電と関連する9配電会社に統合された。東京電燈自体は、9配電会社設立に伴い、1942年(昭和17年)3月に解散した。
[編集] 戦後の変動
戦後、GHQ/SCAP主導で財閥解体など経済の民主化が、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)・過度経済力集中排除法などの新法に基づいて進められるに及び、日本発送電も再編成を求められるようになった。1951年(昭和26年)5月1日には発送配電を行う現在の9電力会社が創立されて日本発送電は解散し、東京電燈がかつてテリトリーとしていた地域は東京電力の供給エリアとなった。