東龍太郎
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東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年1月16日 - 1983年5月26日)は日本の医学者・官僚。第4・5代東京都知事(1959年4月27日 - 1967年4月22日)。第10代日本赤十字社社長(1968年3月15日-1978年3月31日)。位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京大学名誉教授、東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。父藤九郎は医師。妻は東京帝国大学総長で枢密顧問官を務めた山川健次郎男爵の娘。
[編集] 経歴・人物
大阪府出身。天王寺中学校などを経て、東京帝国大学医学部卒業後、ロンドン大学に留学し、物理化学・生理学を専攻。帰国後、東京帝大助教授を経て1934年に教授に昇進。戦時中は海軍司政長官・南西方面海軍民政府衛生局長・結核予防会理事を歴任した。
戦後は厚生省医務局長などを経て茨城大学長に。1959年、自由民主党の推薦で東京都知事に立候補し、日本社会党などが推した有田八郎らを破って当選し、以後1967年まで2期8年都知事を務めた。東京都知事退任後1967年から1969年まで東邦大学の学長を務めた。
大学在学中はボート競技の選手として活躍し、その後も日本におけるスポーツ医学の草分けとなったことから、スポーツ振興に造詣が深く、都知事就任前にも1947年から1959年まで日本体育協会会長・JOC委員長、1950年から1968年までIOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ東京オリンピックの誘致に深く関わっている。
行政としての実績については、後に都知事となる副知事の鈴木俊一によるところが大きいと評価されることがある。東京オリンピック開催に向けたプロジェクトを軌道に乗せた功績は鈴木の手腕に依存しており、そのため、「東副知事・鈴木知事」などと揶揄する向きも強かった。
東京オリンピック開催が成功した後は高度成長の歪みの問題が続出した。公害問題への対処が甘く、また水不足の年に給水制限になったことで批判があった際に雨が降らないからと応えたことに対し、東京都の水利政策がきちんとしていないという批判を浴びるなど、民生に対する施策が欠けていた面が強かった。また、都議会黒い霧事件などの汚職事件は保守都政に対する都民の倦怠感を促進することとなり、それが1967年の美濃部亮吉の革新都知事誕生につながったとの指摘がある。
東自身の人柄はよく、誰に対してもわけ隔てなく愛想よく振舞い、人によって居丈高になるようなことはなかったという。1983年5月26日逝去。享年90。
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