松坂城
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松坂城(まつさかじょう)は、日本の城。現在は松阪城と表記される。所在地は三重県松阪市殿町。日本100名城の一つ。
[編集] 概要
城の縄張りは梯郭式平山城である。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた。
現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがある。松阪は梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている。
[編集] 沿革
天正12年(1584年)近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。ここは伊勢湾に面し城下町の発展性が無いと思った氏郷は、天正16年(1588年)現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して資材とし、急ピッチで年内に完成させた。
城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3重の天守が構えられた。
城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。
築城から二年後の天正18年(1589年)、氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に移った。
代わって服部一忠が入城したが、文禄4年(1595年)豊臣秀次事件に連座したと豊臣秀吉より叱責され自害した。次いで古田重勝が3万4千石で入城し、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増された。重勝はこの年に死去し長子の重恒が幼少のため重勝の弟・重治が襲封した。
元和5年(1619年)古田氏は石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。松阪城は当地を統括する城として城代が置かれた。以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。
江戸時代前期の史料によると、正保元年(1644年)天守が風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。寛政6年(1794年)には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治10年(1877年)失火により二の丸御殿を焼亡した。また、他の建造物も明治14年(1881年)頃までには概ね破却された。現在は殿町御城番に米倉のみが現存している。