徳川家康の影武者説
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徳川家康の影武者説(とくがわいえやすのかげむしゃせつ)、または別人説について。
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[編集] 影武者説を語りだした学者たち
徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかった。しかし明治35年(1902年)4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、『史疑徳川家康事蹟』と題する一冊の史書が出版されたことにより、家康の出自が疑われるようになる。著者は村岡素一郎と言い、時の内閣修史編修官兼東京帝国大学教授・重野安繹文学博士がこの著書の序文に協力している。定価は25銭で、最初は500部が出版されたが、これは重版されなかった。一説に、その著書の内容に憤激した徳川氏(公爵家)や旧徳川氏の幕臣が、民友社に圧力をかけたためと言われている。しかし戦後の昭和30年代、作家の南條範夫がこの著書を基にして『願人坊主家康』、『三百年のベール』という著書を出した。その後、八切止夫が『徳川家康は二人だった』、隆慶一郎が『影武者徳川家康』を出す。さらに村岡の外孫に当たる榛葉英治が、『史疑徳川家康』を出版する。
村岡は歴史学者ではなく、東海地方の地方官吏であった。静岡県という家康と縁が深い土地にも官吏として赴任していた時期があるが、このとき、村岡は家康の素性に疑問を抱いた。家康が影武者だったのではないか、もしくは二人か三人いたのではないかというのである。村岡は、次のような大胆な説を発表した。
- 「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、家康そっくりの影武者である」
というものである。つまり、家康は二人で一人という。この他にも村岡説はあるが、一番主要にされているのは、この説である。ちなみに村岡が家康の素性に疑惑を抱いたのは、林羅山の著書である『駿府政事録』というものである。この著書で、羅山は慶長17年(1612年)8月19日の記述に奇妙なことを記している。 「御雑談の内、昔年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。銭五貫にて御所(家康)を売り奉るの時、9歳より18、9歳に至るまで、駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く」
史実では、家康は8歳から19歳まで今川義元の人質として、駿府にあった。だが、この記事では又右衛門某という人物に銭で売られて義元の人質となった、というのである。史実では、家康は戸田氏によって織田信秀(織田信長)の父)に売られ、後に信長の庶兄である織田信広が今川軍に敗れて捕らえられたため、その人質交換として駿府に送られた。これに対して、桑田忠親は『戦国史疑』という著書の中で、家康は戸田康光によって奪い取られ、銭500貫で織田信秀に売られたというが、他の史料においては戸田五郎、戸田宗光、戸田忠次と名が康光と一致しない者もいるのである。売られた金額も500貫とも言われていれば、5貫とも言われておりハッキリしていない。ただし、戸田氏の一族の誰かということは確かである。しかし後に、戸田氏は家康の家臣になったためか、信秀から銭を受け取ったことを否定しているのである。
[編集] 影武者・世良田二郎三郎元信とは
ところで、世良田二郎三郎元信とは誰なのか、これについて村岡は、本名を酒井浄慶という願人坊主だったのではないかと言うのである。そして彼の母は驚くことに家康の母とされている伝通院ではないかという。ただし父は広忠ではなく、素性も知れない江田松本坊という時宗の祈祷僧ではないかという。伝通院は兄の水野信元が信秀についたため、今川の誤解をさけるために広忠と離縁している。その直後に生まれたのが、彼ではないかという。それなら年齢差も本物の元康とそこまであるわけではないし、生母も同じなので顔がある程度似ていたとしても納得はいく。しかし父の江田は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したらしい。このため、伝通院は久松俊勝と再婚する。このとき、江田との間に生まれた子供は、家康の祖母である源応尼(伝通院の生母)に養育を頼んだという。その後、その子供は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って酒井浄慶と名乗った。しかし殺生禁断の地で小鳥を殺したため、破門されたという。その後、浄慶は駿府を放浪していたが、あるときに戸田又右衛門という男にかどわかされて、銭5貫で子供を欲しがっていた願人坊主の酒井常光なる者に売られたという。ちなみに願人坊主とは、妻帯肉食を許された坊主のことである。
そしてこうして少年時代を過ごした浄慶は、永禄3年に世良田二郎三郎元信と名乗る。実父の江田が新田氏の末裔であると称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は家康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州に逃走したという。これが原因で、家康の祖母とされている源応尼は同年5月6日に処刑された(処刑の記述は松平記に記されている。ただし、他の史書には病死という記述もある)。そして桶狭間で義元が信長に討たれて今川氏が混乱すると、元信は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康と名乗っていた家康に敗れて降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。
[編集] 村岡説
さらに村岡説で大胆なのは、元康がこの直後の永禄3年(1561年)12月4日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻を開始したが、その途上である尾張守山において12月5日、元康が阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたというのである。いわゆる守山崩れであるが、史実にはそのような記述はない。だが、家康の祖父・清康が信秀と戦うために尾張守山に出陣していたとき、暗殺されたという史実はある。しかし村岡は、これは歴史の勝者となった徳川氏が作り出した史実なのではないかというのだ。というのは、この守山崩れには謎が多いからである。弥七郎の父・阿部定吉は清康の家臣として、この守山出陣にも従っていた。ところがここで、定吉が信秀と内通しているという噂が流れ始める。恐らくは信秀の策略だったのだろうが、噂は信憑性を増していったため、定吉は息子に、もし自分に何かあったなら、自分の無実を証明してくれと誓書を手渡した。そして12月5日、陣中で清康の馬が突然、暴れだしたことを父親が殺されたのだと誤解した弥七郎が、清康を惨殺したというのである。しかし、清康は武人の人である。その清康が馬を操れないものなのか。さらに清康の墓は三河大樹寺にあるが、実際の葬地については不明というのも合点がいかない。清康は家康の祖父であり、家康が生涯に尊敬した一人であるのだ。しかも犯人の弥七郎は勿論すぐに殺されたが、父親の定吉は連座で処分もされず、何の咎もうけずに清康の子・広忠の重臣として仕えているのだ。おまけに「三河後風土記」においても、この守山崩れで酒井忠次、大久保忠世、大久保忠佐の3名が従軍していたというのである。清康が死去したのは1535年。そのとき、忠次は9歳、忠世は4歳、忠佐にいたってはまだ生まれてもいないのである。清康の後を継いだ広忠も、天文18年(1549年)に近臣の岩松八弥に暗殺されたと言われている。八弥が三河広瀬城主の佐久間全孝と内通していたためと言われているが、理由は詳しくはわかっていない。清康も広忠も、村正という太刀によって惨殺されている。しかも清康・広忠を殺した犯人たちはいずれも即座に成敗されているが、その引導を渡したのが、二つの事件とも植村新六郎という同一人物である。このため、村岡は清康事件は元康と世良田元信を挿げ替えるために、清康時代に起こったこととした事件として処理した。そして実際には清康は陣中で病にて死去し、元康が守山で暗殺されたという。そして、その元康の身代わりとして立てられたのが、世良田二郎三郎元信。元康と同じ女性を生母とする人物だという。顔立ちも似ていたから、家臣団は替え玉に選んだのだという。では、なぜ家臣団がそのようなまねをしたのか。当時の松平(徳川)氏の三河は、信長と武田信玄という両雄によって挟まれていた。元康には子に信康がいたが、信康はまだ3歳の幼児である。そのような幼児が信長や信玄と渡り合えるはずがないと考えた家臣団は、成長したら家康は病気で死んだということにして、それまでは替え玉である世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を継がせたというのである。つまり、本物の家康は1561年に20歳の若さで死去し、その後は氏素性も知れない願人坊主である世良田二郎三郎元信が、松平元康(徳川家康)となったというのである。
[編集] 村岡説に対する批判
ただし、この村岡説を桑田忠親は厳しく批判している。桑田は「村岡説は小説の素材のようなものであり。家康(元康)と世良田元信を別人とし、そして家康を北条早雲なみの流れ者と仮定している。そのうえで、元康の存在から三河における松平(徳川)氏の過去の事蹟や系図を抹殺しすぎている。さらに守山崩れを清康時代に起こったものとしてではなく、元康時代に起こったものとしている」と言うのだ。しかし村岡も反論している。後に征夷大将軍となった家康は、松平(徳川)氏は清和源氏の庶流である新田氏の一族である得川(徳川)氏の流れを汲むとすることで、将軍位を手に入れているが、この系図は明らかに改竄された(家康の側近・神龍院梵舜によって)ものであり、信憑性が乏しすぎると発言している。これについては所理喜夫も村岡と同様の発言をしている。三河松平氏の系譜は新田義季から始まり、松平親氏が故郷を出て遊行僧となり、徳阿弥と称して諸国を遍歴した。そして三河坂井郷の坂井五郎左衛門の娘婿となった親氏が、松平郷に移って後に松平信重の娘婿となり、還俗して松平氏の家督を継いだことが、三河松平氏、つまり徳川氏の始まりだと言われている。その後、三河松平氏は松平親氏、松平泰親、松平信光、松平親忠、松平長親、松平信忠、松平清康、松平広忠、そして家康と続いている。しかし桑田は、家康はかつて藤原氏を称したこともあるし、多くの学会でも三河松平氏が新田氏の末裔と言うのは何ら根拠のないものとして証明されていると断言している。しかもさらに驚くことに、三河松平氏の祖先である親氏の墓所は、三河にはない。どこにあるのかというと、武蔵国府中本町の弥名寺という、松平氏と当時は全く関係のない場所にあるのだ。つまり、清康以前の三河松平氏の素性は謎に包まれている部分が強く、松平氏が氏素性も知れない一族だったことは確かであり、家康の影武者説が囁かれたとしても無理からぬところがある。
[編集] 村岡の反論と信康事件の謎
これに対して、村岡は天正7年(1579年)の松平信康事件を持ち出していることで反論している。この事件は信康とその生母・築山殿が信長の宿敵である武田勝頼と内通していたことが信康の正室で信長の娘である徳姫によって露見し、激怒した信長が家康に信康と築山殿の処分を求めたという事件である。家康はこの条件を呑み、同年8月29日に築山殿、9月15日に信康を殺害している。通説では、家康が信長の要求を拒絶しなかったのは、信長と家康は君臣関係ではなく清洲同盟を主とした対等な同盟者関係であるが、実質的には家康と信長には大きな力の差があり、家康にはその当時、信長に挑むだけの力がなかったためやむなく了承したと言われている。しかし、この事件には謎も多い。
まず、信長が家康に信康の処分を求めたのは、信康の器量が自分の嫡男である織田信忠より優秀だったためと言われている。しかし、信忠は決して暗愚な武将ではなかった。1582年に父と共に死去するまで、信忠も信長の嫡男として恥ずることのない活躍を見せている。だから、この説は少々、考えにくいところもある。また、家康も酒井忠次と奥平信昌を使者として7月には安土城に派遣し、馬を贈るなどして機嫌をとっているものの、使者として派遣された忠次は、信長が信康の度重なる不行跡(信康は名将だったが、気性が激しく素行が悪かった)などを13か条にして問い質されると、忠次はほとんど弁解すらしていない。それどころか、ほとんどの箇条を肯定して認めているのである。つまりそうなると、忠次は信康の不行跡をかなり前から承知していたということになるし、家康も我が子の不行跡を承知していたということになる。だからといって、信康を切腹までさせなくても、信長に弁護すれば、一応は織田・徳川家は同盟関係にあるのだから、信康を追放するか、隠居させて仏門に入れるなどの処置も取れたはずである。しかし家康は信長の処断要求が来ると、あっさりと信康を処断してしまった。
さらに、処断後にも疑問があると村岡は言う。信康の墓所は二俣城跡の近くにある清滝寺にある。しかしその墓は小さな塚を建ててその上に五輪塔を築くという質素なものである。おまけに、家康は改葬すらしていない。信長存命中なら信康の遺体を改葬することは不可能だったろうが、信長が天正10年に死去した後ならば、改葬もできたはずである。多くの史書では「家康は智勇兼備の嫡男であった信康を愛していた」としているが、これが本当に愛する我が子に対する処置であろうか。築山殿の墓所は現在、浜松市の西来院にあるが、これは明治時代に築山殿の実家である関口氏の子孫に当たる静岡県令・関口隆吉によって改葬されたものであり、それまでは浜名湖畔の原野にみすぼらしい墓を立てて弔われているだけだったのである。つまり、家康は信康と築山殿を信長の要求で処断したのではなく、自ら処断した可能性があるのだ。さらに家康は、信康切腹の一因をなした徳姫に対して尾張岩倉に2000石という化粧料を終身、与えているのである。これに対して村岡は、こう発言している。
- 「私の説は、1561年に松平元康が暗殺され、その後は世良田元信という氏素性も知れない者が挿げ変わったとしている。信康が誕生したのは1559年であるから、信康は元康の嫡男である。さらに築山殿と結婚したのは1557年のことであるから、築山殿は元康と世良田元信が挿げ代わったことを知っているはずである。そしてその築山殿を母とする信康も、母から元康と元信が挿げ代わったことを聞いているはずである。しかも1579年は、信康は21歳のまさに成長しきった武将である。元信は成長した暁には、元康の実の子である信康に家督を譲ることを条件とされている。しかしこの当時、すでに元信には結城秀康(於義丸)と徳川秀忠(竹千代)という実子が生まれていた。父親の愛情としては、血のつながらない信康より、実の子に家督を継がせたいはずである。だから元信は、信長の処断要求が来るや、これを好機として二人を抹殺してしまった、というものである」
確かにこの村岡説であれば、信康事件の謎はたちまちのうちに氷解する。家康は後に信康の死を深く悲しんだと言われ、多くの逸話が残っているが、これらの逸話はできすぎたものも多すぎるため、後年の創作ではないかとさえ言われている。
では、なぜ酒井忠次や本多忠勝、榊原康政らが信長の処刑要求を防ごうと動かなかったのか。これに対しても村岡は、次のような発言をしている。
- 「戦国時代の君臣関係は、主君が取るに足らない人物とわかれば、自分の能力をさらに生かせる主君を求めて鞍替えするのが普通である(例として藤堂高虎など)。滅私奉公という命を賭けてその主君に忠義を尽くすという儒教的美学が作られたのは江戸時代の幕府の文治政策によるものであり、戦国時代にはそれが無かった。また、信康は名将であったが、腰元や領民を些細なことから殺したりするなど、不行跡が多かったことも事実である。このため、家臣団の多くが自分たちの主君を信康という血筋からによる主君ではなく、世良田元信という実力のある主君に求めたのだ」
というものである。
その一方で、近年では通説・影武者説いずれをも否定して、この事件の背景には信康と伊奈忠次をはじめとする信康側近組による「家康追放計画」があったとする説も浮上している。この問題の真相も不明のままである。
[編集] 石川数正事件の謎
さらに、村岡は次の説においても家康影武者説を唱えている。それは、天正13年(1585年)に起こった石川数正出奔事件である。石川数正は、酒井忠次と並ぶ三河の旗頭と言われた人物で、信長との清洲同盟などの政治面、小牧・長久手の戦いなどの戦争においても武功を多く挙げた徳川氏の有力重臣である。それが、なぜ天正13年11月13日になって徳川氏から出奔し、豊臣秀吉のもとへ走ったのか。これに関しても、謎が多い。数正が秀吉と和睦についての交渉を行なっていたが、その交渉において徳川家中で心の無い者が数正が秀吉と内通していると言ったとか、数正が秀吉に誘われたためといわれている。しかし、村岡は次のように発言している。
- 「数正と信康の関係は親しかった。史実では、数正は信康の後見人として岡崎衆を率いてその補佐を努めていたからである。そのため、1579年の信康自害に誰よりも悲しんだのは、この数正のはずである。私の説に従うなら、数正も元康が暗殺されたとき、世良田元信が挿げ変わることは承認していたはずであるが、数正は信康が成長すれば、松平(徳川)氏の家督は信康が継ぐものと信じていたはずである。であるから、信康が信長の処断要求に乗じた家康の命令で処断されたことに、数正は強い憤激を覚えていたはずである。だから、数正は秀吉を新たな主君に求めて出奔した」
というのである。さらに村岡は、
- 「石川数正は秀吉に仕えて、信濃松本藩10万石を与えられた。文禄2年(1593年)に数正が死去すると、家督と8万石の所領を長男の石川康長が、1万5000石の所領を次男の石川康勝が、5000石を三男の石川康次(半次郎)が継いだ。そして関ヶ原の戦いでは東軍に与して功を立てたにも関わらず、家康は慶長18年(1613年)に康長らを「隠田隠匿」というわけのわからない理由のもとに改易している。これは、家康こと元信の亡き数正に対する意趣返しではないのであろうか」
と、発言している。通説では、松本藩改易は大久保長安事件の余波とされている。
[編集] 結論
つまり、家康の過去にはベールも多く、本当に家康が一人だったのかどうか、疑われているということである。隆慶一郎は、家康が1600年の関ヶ原にて死去し、その後は影武者が代役として立てられたとしている。更に一連の説とは別に家康は大坂夏の陣で戦死してその後の1年間は影武者であったとする説もある。実は堺市の南宗寺に家康の墓があり、「堺東照宮」という名称で、その説を裏付けるものとして語り継がれている。