板倉勝重
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板倉 勝重(いたくら かつしげ、天文14年(1545年) - 寛永元年4月29日(1624年6月14日))は、安土桃山時代から江戸時代の大名、京都所司代である。父は板倉好重、母は本多光重の娘。子に板倉重宗、板倉重昌。出家名は香誉宗哲、通称は四郎右衛門。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残る。
三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが1561年(永禄4年)に父の好重が善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の板倉定重も1581年(天正9年)に武田軍の籠る遠江・高天神城攻め(高天神城の戦い)で戦死したために徳川家康の命で家督を相続した。
その後は主に施政面に従事し、1586年(天正14年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、1590年(天正18年)に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都町奉行(のち京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂の豊臣家の監視に当たった。1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下伊賀守に叙任され、1609年(慶長14年)には近江・山城に領地を加増され1万6,600石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。1615年(元和元年)の大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では、本多正純らと共に強硬策を上奏。大阪の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。1620年(元和6年)、子の重宗に京都所司代の職を譲った。1624年(寛永元年)に死去、享年79。
墓所は愛知県西尾市の長円寺。