植村家保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
植村 家保(うえむら いえやす(いえもり))は、大和高取藩の第13代藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代後期(幕末)から明治時代 | |||
生誕 | 天保8年7月1日(1837年8月1日) | |||
死没 | 明治29年(1896年)10月8日 | |||
別名 | 嬬、熊之助(幼名) | |||
戒名 | 恵厚稟聖憲譲院 | |||
墓所 | 奈良県高市郡高取町上子島の宗泉寺 | |||
官位 | 従五位下、出羽守、駿河守、 正五位下、権少教正、従四位、正四位 |
|||
藩 | 大和高取藩主 | |||
氏族 | 本多氏→植村氏 | |||
父母 | 父:本多康禎 養父:植村家興 |
|||
兄弟 | 本多康融、朽木綱張、谷衛弼、 本多康穣、植村家保 |
|||
妻 | 正室:水野忠義の娘・照慈院 | |||
子 | 淳之助、臨太郎、観二郎、墳三郎 幸子(本多康虎室)、養子:植村家壷 |
天保8年(1837年)7月1日、近江膳所藩主・本多康禎の五男として生まれる。嘉永6年(1853年)に高取藩の第12代藩主・植村家興が急死したため、その末期養子となって家督を継ぎ、第13代藩主となる。
幕命により外国船到来に備えて、堺警備を担当する一方で、安政2年(1855年)に桜田門番・竹橋門番に任じられ、12月には御所造営の奉行を担当し、文久元年(1861年)には和田倉門番・馬場先門番に任じられるなど、諸役を歴任した。文久3年(1863年)には天誅組の乱で天誅組と戦い、勝利した。元治元年(1864年)2月、大坂加番に任じられる。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府に与して京都御所の警備を務めた。慶応4年(1868年)閏4月14日、養子の植村家壷に家督を譲って隠居する。
明治18年(1885年)4月に正五位に叙位する。明治19年(1886年)4月に権少教正に任官し、明治21年(1888年)9月には大和神社の宮司となった。明治29年(1896年)10月8日に死去。享年60。
|
|
|