樂吉左衛門
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樂 吉左衛門(らく きちざえもん)は、千家十職の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名称である。2007年現在、15代(1949年- 、1980年に襲名)が当主である。系譜については特にその初期について諸説があったが、今日では1955年に14代(覚入)が発表した統一見解が公式的に受け入れられている。以下もそれに従う。
3代・道入以降の各当主には隠居した時に「入」の字を含む入道号という名前が贈られており、後世にはその名前で呼ばれる事が多い。なお、道入・得入・惺入・覚入は没後に贈られている。
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[編集] 歴史
樂家初代の長次郎(ちょうじろう)は、楽焼の創設者である中国出身の父・あめや(飴屋または飴也)と母・比丘尼の間に生まれ、樂家の代名詞ともなる黒釉をかけた茶碗の作製において非常に優れた技量を見せた。 没後、長次郎の妻の祖父・田中宗慶が豊臣秀吉から聚楽第の一字を取った「樂」の黄金の印を与えられた。これが樂家の始まりである。宗慶は千利休と同じ田中性を持ち、利休にかなり近い存在であったと考えられている。
宗慶とその長男・宗味(長次郎の義父)は樂家の制作活動に深く関わっていたが、前政権の秀吉と親しかったことを慮り、宗慶の次男・常慶(じょうけい)が樂家の2代となった。その後、常慶は初めて吉左衛門を名乗る。本阿弥光悦のとりなしもあって江戸幕府との関係は良好で、芝・増上寺の徳川秀忠の墓には常慶作の香炉が埋葬されていた。
3代を継いだのは常慶の長男・道入(どうにゅう)である。道入は別名(俗称)・のんこう、またはノンカウとも言われる楽焼の名人で、樂家の釉薬の技法を完成させたとまで言われている。また長次郎以外では唯一吉左衛門を名乗らず、吉兵衛と名乗った。
以後、歴代の当主が様々な作品を作り、今日の15代に至っている。
[編集] 歴代
- 初代 長次郎(?-天正17(1589年)
- 二代 常慶(永禄4(1561年)-寛永12(1635年))
- 田中宗慶(長次郎の補佐役と目される)の次男。大降りでゆがみのある茶碗、「香炉釉」と呼ばれる白釉の使用を始める。本阿弥光悦と交流があった。
- 三代 道入(慶長4(1599年)-明暦2(1656年))
- 二代長男。名「吉兵衛」後「吉左衛門」。別名「ノンコウ」。初代や二代とは全く異なる、朱色、黄色など多数の釉薬を使用する明るい作風が特徴。本阿弥光悦の影響と考えられる。
- 四代 一入(寛永17(1640年)-元禄9(1696年))
- 三代の息子。名「佐兵衛」後「吉左衛門」。初代を模範としつつ、父の技法を取り入れ、地味な色調の中に光沢を持つ作風を特徴とする。
- 五代 宗入(寛文4(1664年)-享保元(1716年))
- 雁金屋三右衛門の子、四代の婿養子。名「平四郎」後「惣吉」。28歳の時「吉左衛門」襲名。いっそう長次郎回帰を進める。
- 六代 左入(貞享2(1685年)-元文4(1739年))
- 大和屋嘉兵衛次男、五代の婿養子。「光悦写し」の茶碗に定評がある。代表作「左入二百」(享保18(1733年)作成)。
- 七代 長入(正徳4(1714年)-明和7(1770年))
- 六代長男。茶道人口が町人にまで増大する中、茶碗以外に香合や花入れなど多数の作品を制作。代表作「日蓮像」(樂家所蔵)。
- 八代 得入(延享2(1745年)-安永3(1774年))
- 七代長男。父の隠居に伴い1852年に襲名するが、病弱のため、父の死後に弟に家督を譲り隠居、「佐兵衛」と改名。その後も制作を続けるが30歳で早世。25回忌の時に「得入」と賜号され、正式に歴代の中にはいる。
- 九代 了入(宝暦6(1756年)-天保5(1834年))
- 十代 旦入(寛政7(1795年)-嘉永7(1854年))
- 十一代 慶入(文化14(1817年)-明治35年)
- 十二代 弘入(安政4(1857年)-昭和7年)
- 十三代 惺入(明治20年-昭和19年)
- 十四代 覚入(大正7年-昭和55年)
- 十五代 樂吉左衛門(昭和24年-)※当代
- 本名「光博」。京都府立朱雀高等学校、東京芸術大学彫刻科卒。イタリアローマ・アカデミア留学。昭和56年11月襲名。日本国内外で数々の賞を受賞し、単なる職人としてではなく「陶芸作家」としての評価も高い。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 九原 秀樹『樂歴代と十五代吉左衛門展』陶説、Vol.568、P.19-23、2000年7月
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