水前寺清子
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水前寺 清子(すいぜんじ きよこ、本名:林田 民子、1945年10月9日 - )は日本の女性歌手、女優。社団法人「日本歌手協会」副会長、健康日本21推進ウオーキング実行委員長、社団法人日本ウオーキング協会理事。熊本県熊本市出身。熊本市立碩台小学校卒業。愛称「チータ」の由来は小さな民ちゃんの略からである(動物のチーターからと間違われる事が多い)。芸名の水前寺は故郷・熊本市の水前寺公園から取ったもの。
見得を切りながらの歌唱は「ん~にゃっ!」という語尾ひねりによって安易に物まねされる事が多いが、本人の癖はそれほど強くない。しかし、自らの物まねを意識してあえてひねることもある。
かつて「NHK紅白歌合戦」には22回連続出場していた。又、紅組の司会を4回務めたことがあり、1960年代後半~1980年代にかけて、紅組内ではムードメーカー的存在であることが多かったが、トリを飾ったのは意外にも1983年(第34回)のわずか1回だけである。しかしながら、全盛期を極めていた時代の紅白の象徴的な歌手であり、様々なエピソードが残されている(詳細は後述)。
目次 |
[編集] 略歴
- 1964年 『涙を抱いた渡り鳥』でデビュー。
- 1965年 NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1986年まで22回連続出場。
- 1968年 『三百六十五歩のマーチ』が80万枚の大ヒット。(日本レコード大賞大衆賞受賞)
- 1970年 ドラマ『ありがとう』(TBS)主演
- 1981年 『有明けの海』で古賀政男記念音楽大賞、日本作詞大賞に入賞。
- 1989年 バックバンドのサックス奏者だった小松明(本名が林田姓)と結婚。
- 2000年 熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立。また「水前寺清子一座」を旗揚げ、全国公演。
- 2005年 期間限定再集結聖飢魔IIのミサにゲスト出演し、聖飢魔IIの演奏で『三百六十五歩のマーチ』をデーモン小暮閣下と歌唱。
[編集] NHK紅白歌合戦でのエピソード
水前寺は1960年代半ば~1980年代まで、司会を4回、トップバッターを2回、トリを1回、1981年よりチームリーダー制が引かれてからは紅組リーダーを4回(1983年は盟友である同期デビューの都はるみにその座を禅譲している)、と、全盛時代の紅白を語る上では欠かすことができない歌手であることはいうまでもない。 それだけに紅白における彼女に関するエピソートも多く残されている。
- 1968年、第19回紅白で初の紅組司会を務める。初司会であったためかこの時の水前寺は極度の緊張状態にあり、冒頭の選手宣誓で「昭和43年」を「昭和33年」と言い間違えてしまった。また、この頃は大抵、着流しやパンツルックなど、ボーイッシュな衣装でテレビに出ることが多かった彼女が芸者姿で司会をし、観客から笑いを取ったりもした。
- 1979年、4回目の紅白では、歌手としてよりも司会の方に重点を置く意思で司会に臨んだ。そのため、紅組出場歌手の意思を取りまとめるべく、特に初出場で緊張の極度にいる歌手に対しては激励の言葉をかけ続けたり、各歌手のいい部分を最大限すくい上げようと司会者面談をいつも以上に念入りに行うなど、努力を惜しまなかった。どちらかといえば紅白の勝敗は事前に決まっているのではないか、といった批判があるほどに業務的に決定されている印象が強いが、この年の紅白における紅組優勝のシーン(司会者である水前寺を全員が胴上げするというもの)は、そのような印象を一蹴する感動的なものであった。紅白フリークでもこの年の水前寺の司会は歴代紅組司会の中でも一、二を争う名司会ぶりであるとの評価が多い。また、司会をしていない場合でも毎年、年賀状を全ての紅組出場歌手に出し、叱咤激励の言葉を添えて新年におけるお互いの活躍を讃えあう姿勢を見せるなど、まさに「チームリーダー」という言葉が最もしっくりくる出場歌手であったといえる。
- 1982年の入場行進は、それまでの五十音順での行進という鉄則を破って、意表をつく組み合わせでの入場となった。このときに同期の都はるみとともに入場した相手は当時のトップアイドル、近藤真彦・田原俊彦だった。
- 1983年、出場19回で初のトリを務める。しかし、この年、紅白の直前に、最大の理解者であった父親が死去。彼女のたった1回のトリは、彼女らしい覇気のあるステージではなく、終始涙を浮かべての、悲しみを押し殺してのステージとなってしまった。しかし、このシーンは多くの視聴者に感動を与えた(水前寺は後年、この点につき、本番1ヶ月前にトリが決定していたが、関係者や親族にもそのことを明かしてはならないとの注文がNHKサイドから付けられていたために、病床の父親にもその事実を告げることができなかったことが現在でも心残りとなっているらしく、この事実を父親に告げていれば、紅白本番のときまで父親は生きてていてくれたのかも、という旨を述べている)。
- 1987年、紅白改革の嵐に巻き込まれる形で、全盛期の紅白の最大の功労者ともいえる水前寺も出場22回にして落選という挫折を味わう。1990年代に入り、紅白でも懐メロが本格的に解禁されて出場の機会は幾度となくあったが、落選の後は一度も紅白に出場していない。NHKとしても往時の紅白の顔だった彼女に幾度となく、カムバック出場の要請を行っている模様であるが、それらの要請を断っている。ただし、近年でも紅白歌合戦の事前番組(思い出の紅白・感動の紅白など)にはコロッケらとほぼ毎年出演している。
[編集] テレビ
- 夜のヒットスタジオ(フジテレビ)
- NTV紅白歌のベストテン 紅組初代キャプテン
- ワイド!スクランブル(テレビ朝日系) 初代キャスター(1996~1998)
- お義母さんといっしょ(フジテレビ、2003)
- 教習所物語(TBS系、1997)
- まんが道(NHK 銀河テレビ小説 須賀照江役)
- チータ55号(TBS系)
- あしたがござる(TBS系、1975)
- 天下御免(NHK、1971)
- ありがとう(TBS系、1970~1973(第1~3シリーズ))
- 『きっかけはフジテレビ』初代キャンペーンキャラクター
- 課外授業 ようこそ先輩 母校の小学校をたずね、校歌の意味を教える
[編集] ラジオ
- 元気印! チータdeマーチ (AMラジオ各局)
- 歌謡大行進(文化放送)
- 野村邦丸のごきげん!二重丸◎(文化放送)
[編集] CM
[編集] 主な代表曲
- 涙を抱いた渡り鳥 1964年
- いっぽんどっこの唄 1966年
- どうどうどっこの唄 1967年
- 三百六十五歩のマーチ 1968年
- 真実一路のマーチ 1969年
- 艶歌 1969年
- ありがとうの歌 1970年
- 大勝負 1970年
- 昭和放浪記 1972年
- 有明けの海 1981年
- あさくさ物語 1983年
- 浪花節だよ人生は 1984年(細川たかし、木村友衛、こまどり姉妹らと競作。1984年の紅白では細川と『同曲対決』を行った)
- ウォーキングマーチ 2003年(21世紀版「三百六十五歩のマーチ」)
[編集] その他のテレビ番組
- 『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)の食わず嫌い王選手権で、イクラが嫌いであることを告白したが、その理由は「全員でこちらを見ている」からというものであった。
- テレビ朝日系列の『ワイド!スクランブル』のキャスター(初代)を担当していた頃、江頭2:50がトルコで公開全裸の乱行を行った話題を取り上げた際には、「情けないよ!江頭は最低だ!!」と憤激していた。以降彼女の前で、江頭の話をすることはタブー視されているとも言われる。
- 『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)
- 『森田一義アワー 笑っていいとも!』(テレフォンショッキングゲスト。フジテレビ)
- 『テレビ探偵団』(TBS)
- 『さんまのまんま』(関西テレビ)
- 『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ)
- 『ディスカバ!99』(TBS)
- 『グレートマザー物語』(テレビ朝日)
- 『愛のエプロン』(テレビ朝日)
- 『ライオンのごきげんよう』(フジテレビ)
- 『スター爆笑Q&A』(日本テレビ)
- 『スタジオパークからこんにちは』(NHK総合、2007年4月4日)
- 『BSふれあいステージ』(※司会。NHK衛星第2テレビジョン、現在放映中)
[編集] 外部リンク
chita365.net(公式HP)
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