水沼貴史
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水沼 貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日 - )は、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)出身の元サッカー選手。ポジションはFW、MF。現在は横浜F・マリノストップチームのコーチ。
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[編集] プロフィール
浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)から法政大学を経て、日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)へ入団。1979年に日本で開催されたFIFAワールドユース選手権の日本代表として選出され、チーム唯一の得点を記録する。テクニック溢れるドリブラーとして3トップのウィングやMFとして活躍し、金田喜稔、木村和司らと共に日産の黄金期を築いた。また日本代表チームでも活躍。1987年ソウルオリンピック予選・アウェー中国戦で、高さを誇る中国DFを翻弄した、原博実の決勝ヘディングゴールを演出したピンポイントCK、'90W杯予選・ホーム北朝鮮戦の同点ゴールは語り草となっている。Jリーグ発足前の人気低迷時代の日本サッカー界を支えた人物の1人でもある。
1995年、鹿島スタジアムでの1stステージ開幕戦での途中出場を最後に現役を退く。奇しくも、この年の横浜マリノスは早野宏史監督のもと、1stステージで初のステージ優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップで宿敵ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)と争い、Jリーグ発足後初めて年間チャンピオンになった。引退時は、血尿が出るほど体調が悪く、到底プレイに耐えうる状態ではなかったと引退後に回想している。
1996年から2006年1月までTBS「スーパーサッカー」(実は第2回放送にゲストとして出演していたりする)のご意見番役として出演。「ニュースの森」毎週月曜日に、ワールドサッカーパラダイスのコーナーも担当した。テレビ神奈川、ニッポン放送サッカー解説者で、2006年1月までテレビ神奈川ではキックオフ!!F・マリノスのパーソナリティーも務めていた。また2002年10月~2003年3月にはTBSラジオ「水沼貴史のスポーツボンバー!」等も担当した。2003年~2005年は、法政大学コーチとして、出身校の学生を指導した。2004年にS級ライセンスを取得した。
息子である水沼宏太(横浜F・マリノスユース)は2006年現在U-16日本代表。
2006年2月1日~2007年1月31日の1年契約で、横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。それに伴い、スーパーサッカー、キックオフ!!F・マリノスの両番組は降板(卒業)となった。さらに2006年8月24日には成績不振で辞任した岡田武史の後を受け、監督に就任。 しかし具体的な戦略がない状態でチームの不振は続き、天皇杯終了後に辞任する事が決定した。2007年は再び横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。
なお、マリノス出身の元選手が横浜F・マリノストップチームの監督になったのは、水沼が初めてであった。 (早野現監督はマリノス前身の日産自動車サッカー部出身である)
テレビゲーム・プロサッカークラブをつくろう!シリーズに架空日本人選手として登場する氷沼貴之(FW)は、水沼がモデルであると思われる。解説者として木村和司とともに実名出演をしている。
[編集] 選手時代の実績
本太少年団で全国少年団サッカー大会を優勝し、浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)では3年生の時に全国制覇、その後進学した浦和市立高校南高校(現:さいたま市立浦和南高等学校)では熱血の誉れ高き名将松本暁司監督の指導のもと、1年生のときからレギュラーに定着。全国高校サッカー選手権では、歴史的な名勝負と言われた静岡学園との死闘を制して優勝。16歳にして、小中高と全てのカテゴリーで日本一を経験した。法政大学では、総理大臣杯全日本サッカートーナメントを2度制し、また、4年生の時に自らのゴールで1部復帰を果たすという重責を成し遂げた。その後、日産自動車サッカー部に入団し、チームのタイトル獲得に貢献した。90年代になると、木村和司と2枚看板を組み、日産の主軸として活躍した。なお、水沼は、Jリーグ以外の各カテゴリー(小中高大、社会人)の大会で優勝を経験した。
現役時代はボレーシュートの巧さに定評があり、切れ味鋭いフェイントを交えたドリブル、創造性溢れるパスセンス、トラップから素早いシュートなどテクニックにおいて多彩な才能を発揮。特に日産、マリノスにおいてチームメイトの木村和司とのコンビネーションは最高だった。後の日本における技巧派MFのさきがけ的存在である。また、持ち前の冷静な判断力とサッカーへの情熱は選手引退後も解説者、指導者として生かされている。
[編集] 経歴
[編集] 現役時代
- 1976年-1979年 浦和市立南高等学校
- 1979年-1983年 法政大学
- 1983年-1992年 日産自動車サッカー部
- 1993年-1995年 横浜マリノス
- 1995年引退
[編集] 指導者時代
- 2003年-2005年 法政大サッカー部:コーチ
- 2006年- 現 在 横浜F・マリノス
- 2月1日-8月24日:コーチ
- 8月25日-12月末:監督
- 2007年-:コーチ
[編集] 個人成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1993年 | 横浜マ | J | - | 26 | 3 | - | |||||
1994年 | 横浜マ | J | - | 15 | 2 | - | |||||
1995年 | 横浜マ | J | - | 1 | 0 | - | |||||
通算 | 42 | 5 | - |
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 7得点(1984-1989)
- 国際Bマッチ 5試合 1得点(1984-1988)
- 国際Cマッチ 33試合 8得点(1984-1989)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1984年 | 5 | 1 | 1 | 1 | 3 | 0 |
1985年 | 8 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 |
1986年 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 |
1987年 | 8 | 2 | 0 | 0 | 9 | 3 |
1988年 | 3 | 0 | 3 | 0 | 11 | 3 |
1989年 | 8 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 |
通算 | 32 | 7 | 5 | 1 | 33 | 8 |
(誤差は不明)
[編集] 獲得タイトル
[編集] 学生時代
- 全日本小学生サッカー大会優勝- 本太少年団
- 第6回全国中学校サッカー大会優勝(1975年) -浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)
- 第55回全国高等学校サッカー選手権優勝(1976年)- 浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)
- 第4回、第6回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝(1980年、1982年)- 法政大学
[編集] 日産自動車~マリノス
- 天皇杯(1983年、1985年、1988年、1989年、1991年)
- 日本サッカーリーグ(1988‐99年、1989‐90年)
- JSLカップ(1988年、1989年、1990年)
- アジアカップウィナーズカップ(1991‐92年)
[編集] 個人タイトル
- アシスト王(1986-87年、17アシスト)
[編集] 外部リンク
J1記念ゴール | ||
前回: 初ゴール マイヤー |
500ゴール 水沼貴史 1993.12.1 |
次回: 1000ゴール メディナベージョ |
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