水球
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水球(すいきゅう,英:Water Polo)は、プールで行われる球技。
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[編集] 概要
七名ずつの二組が、レギュラーメンバー。泳ぎながらボールを相手のゴールに投げ入れることを目的としゴールキーパー以外は片手でのみで試合をする。審判は主審と副審。メンバー交代はゴールを決まった時など自由にできる。
基本的に足のつかない深いプールで行う。静止する場合は巻き足と呼ばれる立ち泳ぎを使う。また体のほとんどは水中にあるため反則は分かりにくく、その結果、掴んだり、蹴ったりが日常的に発生し「水中の格闘技」と言われることもある。
19世紀後半、イギリスで考案された。夏季オリンピックの種目となっている。プールで行うハンドボールと言える。
中学生は5分を4ピリオド、高校生以上は8分を4ピリオド。1ピリオドごとに2分、ハーフタイムは5分のインターバルがある。
[編集] 水球の歴史〜水球の発祥
水球発祥の国は、Great Britain(英国)。19世紀半ばにイングランド各地で公衆浴場(プール)が開設されると、そこを拠点とした水泳クラブがいくつも結成される。1860年以降、各クラブでは見世物として水上イベントが盛んに行われ、その中で、当時の駿馬の名前をつけた木製の頭付き樽にまたがってレースを行う「ウォーター・ダービー」などが開催され、人気を博した。またポロからヒントを得て、スイマーたちがスケッグ(水中姿勢安定板)付きの樽に跨り、浮いているボールを追ってパドルで奪い合う水上Polo(ポロ)も行われたとされ、これがWater poloの語源ともされる。注1) フットボールも時として水中で行われたが,水中では足を使ってボールのコントロールが困難であるため,対峙する2チームは決められたポイント(主にボート)までボールをいかに運ぶかを競い合った.ボールを運ぶにあたっては,あらゆる手段が用いられ,水中での激しいボールの奪い合いが繰り広げられたようである.そしてこの水中で行うフットボールに関して、イングランドのMetropolitan Swimming Association(メトロポリタン水泳協会)が、1870年にFootball in the water(水中フットボール)の名称でルールを制定したのが競技としての水球の起源とされる。その後1888年、Amateur Swimming Association(アマチュア水泳連盟)によって、ほぼ現行と同様の水球競技規則が策定され、イングランドおよびスコットランドにおいて水球が盛んに行われるようになった。さらに1892年には英国における統一ルールが制定され、イングランド対スコットランドの国際試合が行われるなど、競技としての水球がさらに洗練されていく。
[編集] 水球の伝播
1888年、英国において統一ルールが制定され、スポーツ競技としての水球が確立されたのを契機に、水球が英国国外へと伝播した。1888年、イングランドのクラブにおいて水球のプレイ経験をもつジョン・ロビンソン(John Robinson)が米国に渡り、はじめて水球を紹介している。数年遅れてロンドンで水球を学んだフリッツ・クニーゼ(Fritz Kniese)は1894年に祖国のドイツで水球を広め、1895年にはドーバー海峡を隔てて英国の隣国であるベルギーにも水球が紹介されている。同時期にフランスでも水球が行われるようになったが、組織化された形で発展するのは1898年になってからである。またハンガリーでは、英国の雑誌を見ていて水球に興味を持ったフゼーレッシ・アルパード(Füzéressy Árpád)が水球のルールブックとボールをハンガリーに導入し、1899年に初めてハンガリーで水球の試合が行われた。 この伝播は偶然に起きたのではなく、その背景には社会的あるいは地理的要因が関連し、いずれも水球発祥の地、英国と深いつながりを持つ人物を介して伝播して行った。しかしながら当時英国で行われていた水球そのものが導入されて、相似形として各国において発展していったのではない。各国の実情に合わせて、様々に形を変えながら、その土地柄に合わせて水球が根付いていったと言える。 特に米国では柔らかいゴムボールを用い、英国とは異なる独自のルールによる"Softball Water Polo"が発展した。当時、米国ではこの水球が大変な人気を博すが、あまりにもプレーが粗暴で、試合のたびに選手中に怪我人や失神者が続出したため、全米体育協会(American Athletic Union:AAU)は1908年以降、水球競技を禁止スポーツに指定し、1920年のアントワープオリンピックまで代表チームを派遣することがなかった。 一方、フランスではベルギー国境の街で水球が盛んに行われるようになる。そして1900年のパリ万国博覧会の開催に合わせて、第2回パリオリンピックが開催され、団体種目として、そして球技として水球が始めて採用された。試合は、1900年8月11日~12日まで、セーヌ川の特設会場(Basins d’Asnières Courbevoie)で行われ、マンチェスタークラブ(Manchester Osborne Club)のメンバーを代表とする英国が7対2でベルギーに勝利し、初代オリンピックチャンピオンの栄冠を手に入れた。
[編集] 日本への普及
記録に残る日本で最も古い水球の試合は、1907(明治40)年8月5日に第二回関東連合游泳大会において東京高等師範学校(現・筑波大学)と第一高等学校(現・東京大学)が館山(千葉県)で行ったものとされる(東京高等師範学校友会誌、第14号、 pp.116、1907)。1915(大正4)年には慶應義塾水泳部内にウォーター・ポロ・チームが結成され、同年8月15日には、神奈川県葉山海岸の会場に特設されたフィールドで横浜外人クラブと試合を行った。結果は、9対0の大差で慶應義塾が負けたが、これが日本国内で記録に残っている最初の国際試合となった。1925(大正14)年には、大日本水上競技連盟の主催で10月10~12日の3日間に渡り「全日本選手権水上競技会」が開催され、ウォーター・ポロ競技が公式競技として初めて実施された。本大会には、慶應義塾(関東代表),東京ウォーターポロ倶楽部(東海代表),帝国水友会(近畿代表)の3つのチームが出場し、玉川プールで行われた。10月中旬とあって水温が低く、過酷な条件での試合となったが、寒さによく耐えた東京ウォーターポロ倶楽部が優勝し,次いで慶應義塾,帝国水友会の順となった。1932(昭和7)年6月には、ロサンゼルスオリンピックに初めて日本がナショナルチームを派遣し、国際大会デビューを果たした。しかし現実は厳しく、オリンピック大会では5カ国が出場して日本は3試合を行ったが、対米国戦(0-10)、対ハンガリー戦(0-18)、対ドイツ戦(0-10)と惨敗し、世界との差を見せ付けられる。
[編集] ルール
[編集] パーソナルファール
ボールを持ってない相手を「捕らえる」「沈める」「引き戻す」などの重いファールはパーソナルファールといい、これらの行為をすると退水といい正味20秒ゴールの横に待機する。点数が入るもしくは、退水競技者側のチームがボールの所有権を再獲得すると試合に復帰することができる。退水を1試合の3回行うと永久退水になりその試合には出られなくなりベンチに試合終了まで待機しなければならない。また極めて悪質な場合には通称『一発永退』と呼ばれ、その選手はその試合に出られなくなる。これは「交代選手あり」と「交代選手なし」に分けることもできる。
[編集] オーディナリーファール
- 相手が持っているボールを沈めることをアンダーウォーターといい自分が攻めることができる。審判は手を上下にフルような動作をする
- ゴールキーパー以外が両手をいっぺんにつかうとボウスハンドといい相手ボールになってしまう。審判はボールを両手で持った様な動作をする
- 相手を押すとプッシングといい、相手ボールになってしまう。審判は手で相手を押す様な動作をする
- ボールより先にゴール前2メートルに入るとリメインといい、相手ボールになってしまう。審判は指をVサインにする
- 上記以外に自分がボールを離したりするとフリースローとなり、合図なしにパス出来る。このときに5メートルより後ろだとシュートを打つことが出き、パス打つ前にボールが水面に付くとパスを妨害する事が出来る。
- 5mエリア内で、相手の得点となりそうな攻撃を反則によって阻止した場合、5メートルペナルティーシュートをする権利が手に入り1人が5メートルに並び、その他の選手は5メートルより後ろに居なければならない。審判の合図と共にフェイクなしでシュートを撃ち、フェイクをすると相手ボールになってしまう。
[編集] 新ルールについて
- フリースローシュートが7メートルから5メートルに変更
- キーパーが触った場合のみコーナースロー
- 攻める時間が35秒から30秒に変更。そのため、ゴールキーパーの存在が重要になりフィルダーは泳げることが重要になる。
[編集] 日本人選手
現在、スペイン・バレンシアでは田中宏児が、イタリア・セリエAのブレッシアで青柳勧が、そしてドイツでは塩田義法らが活躍している。また、スペインでは練習生として小池吉崇ら数名が活動している。 現在の日本代表主将は佐藤太一である。
[編集] 水球経験者
[編集] 情報
ベースボールマガジン社の「月刊スイミングマガジン」に水球コーナーがある。専門誌は月刊「水球」が発行されている。 かつて、水球ファンが開設していた水球サイトから発展した、「ウォーターポロマガジン」が存在した。その後、「ウォーターポロマガジン・プラス」としてリニューアルされたが、発行人が逝去したことで1年ほどで廃刊となった。競技人口が少ない水球であるが、月刊水球という、専門誌が存在することは、特筆すべき事だろう。