田中不二麿
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田中不二麿(たなかふじまろ、弘化2年6月12日(1845年7月16日) - 明治42年(1909年)2月1日)
近代の学校教育の制度確立に尽力した明治期の高級官吏、華族。青年期は寅三郎(とらさぶろう)といった。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩出身者の一人。島崎藤村の長編小説「夜明け前」にも登場する。
[編集] 経歴
尾張藩名古屋城下に生まれ、長じて藩校明倫堂で和漢古典を学ぶうちに勤皇思想に心酔した。成績優秀につき藩参与に取り立てられる。
時あたかも幕末の動乱期であり、佐幕か尊王攘夷かで尾張藩も意見が二分したが、尊攘派の「金鉄組」に属した。徳川家親藩という、藩論を論ずるにあたり大変な神経を使う藩情にも関わらず、尊皇攘夷の大道を説き続け、同僚の丹羽賢、中村修(後の名古屋市長)らとともに尊皇攘夷建白書を家老ほか藩内要職者に提出。また京に足を運び彼地の尊皇攘夷論者と頻繁に接触した。
青松葉事件以後、実権を握る徳川慶勝の右腕となって藩論の統一に尽力し、一躍藩の内外にその名を知られるようになる。
1868年(慶応4年)正月、官軍に徴士、翌年「大学御用掛」拝命、教育行政に携わるようになる。
1870年(明治3年)阿波国で稲田騒動勃発するの報が届き、特命を受けて現地に急行、関係者聴取のうえ短日月のうちに報告書を上程、迅速な騒動鎮定に大いに寄与する。
1871年(明治4年)10月、文部大丞になる。岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手とし、欧米の学校教育を見聞する。帰国後、欧米教育制度を紹介した「理事功程」15巻を著す。
1874年(明治7年)文部大輔となる。外務卿陸奥宗光とともに、観測のため来日したメキシコ天文観測隊を歓待し、近代日墨国交の端緒を開く。
1879年(明治12年)「教育令」を建白、学制が廃され同令が施行される。
学制にある画一的なあるいは民生圧迫的な側面を退けて、アメリカ式の地方主体の自由主義教育を基調としたもので、6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど画期的なもので親や町村の教育負担を著しく軽減した。
一方において、音楽取調掛を設け、伊沢修二らを欧米に派遣し「蝶々」「霞か雲か」「ローレライ」等ドイツ民謡を教育現場に取り入れるとともに音楽教育の近代化を図り、あるいは伊沢とともに「体操伝習所」を設置し近代体育教育を導入なおかつ日本人身体の科学的調査を行ない、また「女子校」や「幼稚園」の開設に関与するなど、わが国教育史上における田中の功績は枚挙にいとまがない。
しかしながら、未就学児の増加ならびにいわゆる「学力低下」を招いたとして政府内で批判が強まり翌1880年(明治13年)司法卿に配置換えとなる。
以後教育から遠ざかり、参事院議官、駐イタリア公使、駐フランス公使、枢密顧問官をへて1891年(明治24年)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」との伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け松方正義内閣の司法大臣を拝命。 後、位階正二位に任ぜられ爵位(子爵)を授与される。
1909年(明治42年)65歳で没。子に地質学者・田中阿歌麿(たなかあかまろ、1869年-1944年)、孫に経済地理学者の田中薫がいる。
[編集] 戯曲・國語元年の田中閣下
井上ひさしの戯曲「國語元年」は1874年(明治7年)の東京にある架空の文部官吏の邸を舞台に、登場人物がそれぞれのお国訛りを喋ることで好事家の興味をそそる作品であるが、主人公に「全国統一話言葉(はなしことば)制定取調」を任命する上席役人として“文部少輔田中不二麿閣下”が登場する(厳密には主人公が「田中閣下はこう申された」と発言を引用される形)。田中はタレントのタモリも尻尾を巻いて逃げ出さんばかりの激しい名古屋弁で主人公を叱責する。
- 「てぁーもなぁーことだでよー」(飛んでもねえことだ)
- 「オミャー、ニスイワナン」(にぶいんだよ、おまえは)
- 「今頃めずらしヌクでやわ」(このごろ珍しい抜け作だよ)
- 「チョーズバにブチョ落ちてビタビタビタンコになるがエーだよォ」(便所に叩き落ちてびしょ濡れになるがいいや)
[編集] 参考文献
- 「子爵田中不二麿伝」 名古屋咬菜塾 昭和9年刊
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