浜田マキ子
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浜田マキ子(はまだ まきこ、1942年3月19日 - )は日本の実業家・政治家・エッセイスト。本名は浜田 麻記子[1]。
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[編集] 経歴・人物
- 夫は元衆議院議員・参議院議員で弁護士の浜田卓二郎。元参議院議員・郵政大臣の植竹春彦は叔父、元衆議院議員・外務省副大臣の植竹繁雄は従兄にあたる。
- 東京都文京区に実業家の娘に生まれる。清明学園初等学校を経て森村学園初・中・高等学校卒業。1960年に日本航空に入社し、国際線スチュワーデスとなる。翌1961年に退社して東京大学に入学。1965年、東京大学文学部東洋史学科を卒業後に叔父の秘書となるが、同年大蔵省に勤務していた卓二郎と結婚。長男をもうける。
- 1973年花嫁学校「芝アカデミー」を設立。以後現在まで貿易や人材育成コンサルティング関連など複数の会社を経営しながら、著作出版・雑誌発行・講演活動を行っている。
[編集] 政治活動
- 1980年に卓二郎が衆議院議員に初当選しマキ子も代議士の妻となったが、1990年2月の総選挙に埼玉5区(当時)から無所属[2]で初出馬し世間の耳目を集める。隣接する埼玉1区(当時)[3]から立候補していた夫の卓二郎と選挙区境で共に街宣活動を行う。当時マキ子は消費税反対の立場をとっており、卓二郎と街頭で舌戦を繰り広げる独特のパフォーマンスを見せた。しかし代議士の妻が突然立候補し、夫の所属政党の政策を批判する姿は有権者に奇異な印象を与え、注目された割には支持が広がらず落選した(卓二郎は当選)。その後夫を残して単身アメリカに留学した。
- 帰国後の1991年4月に東京都知事選挙に無所属[2]で立候補したが下位で落選。以後たびたびテレビに出演するようになり、ニュース番組のコメンテーターなどを務めたほか、著書を出版するなど多方面に活動し話題となる。
- 1993年7月衆議院議員総選挙に埼玉2区(当時)から再出馬するも落選[4]。埼玉1区(当時)から立候補していた卓二郎も落選し、夫婦そろって涙を呑んだ。その後は「主人の国政復帰をサポートする」と表明し自身の政治活動を休止する。
- 卓二郎は新進党の結党に参加してから創価学会の支援を受けるようになるが、マキ子は当初創価学会に助けを求めることを潔しとせず、卓二郎の政治活動への協力も消極的となった。しかし1996年、衆院選で卓二郎は再び落選。参議院議員への転進を図ることになり、マキ子もやむなく創価学会に頭を下げることになった。1998年7月に卓二郎は参議院議員に当選し、マキ子も自身の活動を再開したが、同年8月に「人前で女・妻がものを言うときはもちろん離婚覚悟ですよ」と発言したことをきっかけに離婚騒動。ワイドショーや女性週刊誌誌上を賑わせた。これ以後テレビ出演を控えるようになった。
- 2003年の衆議院選挙では突然東京1区から無所属で立候補。このとき、対立候補であった又吉イエスが海江田万里・与謝野馨・佐藤文則らは腹を切って死ぬべきだと主張していたが、浜田マキ子だけは突然の立候補だったためポスターや選挙公報の印刷に間に合わなかったことから言及されなかった[5]。結局、5,572票の得票しか得られず落選した。
[編集] 著書
- 『普通の女 駄目なものは駄目、いいものはいい』(世界文化社 1991年)
- 『女はみんなジャンヌ・ダルク』(コスモの本 1991年)
- 『「楽勉」のすすめ 受験生をもつお母さんへ』(経済界 1994年)
- 『キレイはマネからおしゃれは勇気』(DHC 2005年)
[編集] 脚注
- ^ 旧名は浜田 槙子。結婚前の旧姓は藤井。
- ^ a b 但し、出馬時には自民党の党籍を有していた
- ^ 事実、埼玉5区は1976年の総選挙を機に埼玉1区から分割設置された経緯がある。
- ^ この時は自民党の公認を得ていて、しかも夫と同じ宏池会の支援を受けていた。
- ^ 但し、「浜田マキ子はどうすべきか」という質問に対して又吉は「浜田マキ子は責任を取って死ぬべきであるが、女性であるので腹を切って死ねとは言えない」と答えている
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カテゴリ: 埼玉県の政治家 | 国政選挙立候補経験者 | 1942年生