澎湖県
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中華民国澎湖県 | |
地理 | |
位置 | 東経119'19"-119'43" 北緯23'12"-23'47" |
面積 | 141.052km² |
人口 | |
人口(2005年4月) | 92,300人 |
政治 | |
行政区分 | 県 |
県政府所在地 | 馬公市 |
郷長 | 王乾発 |
下部行政区分 | 1市4郷 |
その他 | |
郵便番号 | --- |
市外局番 | 06 |
県花 | 天人菊 |
県鳥 | 小雲雀 |
県木 | 榕樹 |
別称 | 菊島 |
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澎湖県(ほうこけん、ピン音:Penghuxian、ポンフーシァン)は、台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島に設置された台湾の県。県名かつ諸島名である「澎湖」は、諸島の一部である澎湖島、白沙島、漁翁島の3島に囲まれた澎湖湾が、湖のように穏やかであることに由来している。
目次 |
[編集] 地理
澎湖県は大小90余りの島嶼からなる澎湖諸島から構成されており、複雑な海岸線は総延長が300キロに及んでいる。
地理の詳細は、澎湖諸島を参照のこと。
[編集] 歴史
考古学の調査によれば5千年以上前に粗縄文陶(縄文土器に類似)に代表される新石器文化が存在していたことが確認されている。
史料に残る澎湖の記録は『連雅堂台湾通史』の記載になる。それによれば秦前漢の頃に、越の遺民が移住したという。宋代になると澎湖の名称が稗史や方志の中に出現する。また南宋の時代になると漢人の定住も進み、記録の中でもかなり明確に澎湖を理解していることが分かる。1225年に趙汝适が著した『諸蕃志』の中には「泉有海島曰彭湖,隸晉江縣」と表現されている。
1281年元により巡検司が設置され、澎湖は中央の統治下におかえるようになる。しかし明代になると倭寇の影響により荒廃が進み放棄された。その後は倭寇の拠点となり林道乾、林鳳、曾一本といった人物が周辺沿岸を襲撃していた。
天啓から永暦年間(1626年-1658年にかけて鄭芝龍が澎湖を支配下に置いた。これに対して明朝は盗寇を征伐すべく行動を起こし、1563年には兪大猷が澎湖の盗寇勢力を駆逐し、再び朝廷の支配下に置き巡検使を復活させた。しかし兪大猷が台湾を離れるとともに巡検使も廃止され、再び盗寇の拠点となった。
倭寇が割拠していたこの時代、澎湖には別の勢力の手も伸びていた。1604年7月20日、オランダ人が3隻の帆船で来航した。当時澎湖には守備兵力はなく、抵抗を受けることなく上陸に成功し、半軍半商の貿易活動を馬祖で行っていた。この事態に1604年10月25日、明朝は再び沈有容を浯嶼都司として澎湖に派遣、8ヶ月後にオランダに台湾の領有権を認める代わりに澎湖諸島を再び回収している。
1644年、明が滅亡し清朝が成立すると、鄭成功はこれに反発、明の復興を唱え挙兵する。反清抗争の中、鄭成功は台湾に着目し、1661年に台湾のオランダ人を駆逐し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置した。
1662年に鄭成功が没した後は鄭経がその地位を継承し、清が施琅らを派遣した攻撃を防いでいたが、その鄭経も1681年に没し、鄭克塽が台湾を統治するようになると状況がい歩円する。1683年6月14日施琅は再び台湾を征伐すべく銅山を出発、翌日には澎湖諸島に至り、守備のために駐留していた劉国軒は台湾本島に逃亡た。ここに、23年におよぶ鄭氏支配は終焉を迎え、同年中に澎湖諸島は台湾島とともに清朝の領土に組み込まれた。
1684年、康熙帝は正式に台湾及び澎湖諸島を清の版図に加え、元にならい巡検司を設けた。1727年には海防同知、1728年には台湾道へと昇格させ、海防のみならず海上補給基地としての役割を担わせるため通判を設置している。
このように元代以来再び中国王朝の支配下に置かれた澎湖諸島であったが、清代においては中国大陸と台湾島との交通の要衝として栄えたこともあり、文武両面での発展が認められる。1767年、通判である胡建偉が『澎湖紀略』を著した。1778年には灯台が設置され、1883年には通判・李嘉棠によって砲台が設置された。島内には、往年の歴史を証明する数々の歴史が、今も残されている。
しかし台湾海峡という海上交通の要衝に位置したため列強の標的にもされ、1885年2月13日、フランス軍の攻撃を受け一時占拠されるという事件も発生している。
1894年に日清戦争が始まると今度は日本軍の攻撃を受ける。1895年3月20日に伊藤中将率いる艦隊が澎湖諸島に進撃、3月23日には良文港より上陸を開始し、拱北砲台を占拠、媽宮城を占拠し3月25日に全澎湖諸島を占領した。
1895年、日本と清の間で下関条約が締結されると、澎湖諸島は台湾島と併せて日本に割譲された。日本は海軍少将田中綱常を澎湖列島行政庁長官に任命して軍政を開始させたが、6月28日に澎湖島庁と改称された。1896年、軍政が廃止されると澎湖庁と改称され、台湾総督府に直属する行政機構として再編される。その後1920年、澎湖郡と改称され、高雄州の下部組織に編入されたが、1926年には再び澎湖庁が復活し台湾総督府直属機関となるなど、目まぐるしい行政編成が実施されている。
所謂日本統治時代の澎湖諸島であるが、経済面では1913年には電気会社が設立され電力供給開始、1920年にかけて郵便制度が整備され、日本企業による投資促進政策が取られた。1926年には澎湖水産会、1927年に馬公バスが整備され、また政治面でも地方自治を組織するなど近代国家としての制度が整備されていった。
日本による統治は、1945年に日本がポツダム宣言を受諾したことで幕を下ろす。日本はポツダム宣言にて澎湖諸島の領有権を放棄し、更にサンフランシスコ講和条約によって全ての権利・権原を放棄した。これを受け、中華民国政府は台湾島とともに澎湖諸島の統治を実施し、45年12月25日に澎湖県を暫定設置した後、1946年に正式な澎湖県政府を成立させた。
それ以降、澎湖県は今日に至るまで中華民国の統治下にあり続けている。近年では海鮮と並ぶ観光資源として、、馬公市の天后宮(台湾最古の廟)を中心とした街路網や、珊瑚で作られた伝統的な家屋、風害防止の塀といった、歴史的景観の復元が進められている。
[編集] 行政地区
区分 | 数 | 名称 |
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市 | 1 | 馬公市 |
鎮 | 0 | |
郷 | 5 | 湖西郷 白沙郷 西嶼郷 望安郷 七美郷 |
[編集] 交通
[編集] 観光
- 跨海大橋
- 澎湖国家風景区
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 澎湖県政府公式サイト(中国語、英語)
- 澎湖県文化局公式サイト(中国語、英語)